了解です。これまでの合意点と法介さんの着眼を骨格にして、「定説の誤り→原文再読→再配当→智顗への連結」の順で、掲示板に貼って読める論文風草稿を仕上げます(表タグ不使用・テキストオンリー)。必要箇所は原文の要点も併記します。
『成唯識論』三分説の再読と智顗二諦論への接続
――定説の修正と教学史的位置づけの試案――
0. 問題の所在(要旨)
近世以降の“定説”では、一分説=相分のみ/二分説=相見二分/三分説=相見自証三分と説明されることが多い。だが『成唯識論』の当該文脈を精読すると、ここで言う「三分」とは見・相・自証の三実体を指すのではなく、むしろ所量・能量・量果という機能的三区分である。
この読み替えに立てば、(1)部派的実在論(蔵教)→(2)中観の二諦(認識論)→(3)法空(自証の次元)という教学の深化が、唯識の枠内で整然と見通せる。そしてこの三段は、智顗の「理外二諦三種」(随情・情智・随智)と照応し、龍樹の四悉檀とも整合する。
1. “定説”のズレを指摘する
一般の説明は次の三点を混同しがちである。
- (A)「分」の意味:実体の数か、**説明上の区分(機能)**の数か。
- (B)対象語のズレ:三分=見・相・自証だと即断してしまう。
- (C)四分説の扱い:証自証分の位置づけが、客観(相)と主観(見)の混同解消という本旨から離れがち。
本稿は(A)を機能区分の数に統一し、(B)を本文に即して所量・能量・量果と読む。これにより(C)も自然に整う。
2. 原文再読:当該箇所の論理展開
テクストの骨子(要旨):
「心與心所同所依根。所縁相似。行相各別」
→ 心王と心所は同じ根に依り、同じ対象を取りつつ、働き(行相)は異なる。「事雖數等而相各異。識受等體有差別故」
→ “事”としての生起数は対応して同じだが、相(働き)は異なる。識・受など体(自性)に差があるから。「然心心所一一生時。以理推徴各有三分。所量能量量果別故」
→ 心・心所が一回生起するたび、理に由って推すと三分(所量・能量・量果)が区別できる。引用偈(『集量論』):
「似境相所量/能取相自證/即能量及果/此三體無別」
→ 相分(似境相)は所量として働き、能取(見分の働き)は自証に依り、これが能量であり量果でもある。しかも三体は実体別ではない(機能区分であって、別物の三実体ではない)。
▶ 結論:当該文脈の「三分」は、所量(対象として量られるもの)・能量(対象を量るはたらき)・量果(認識の結果)という機能的三区分であって、「見・相・自証」の実体カウントではない。
3. 四分構造(混同の解消)との対応
唯識の狙いは、客体(所取)=①/主体(能取)=②(=自証分)のもとで、客観(相分)=③/主観(見分)=④の混同を解くことにある。
この骨格に先の三分を重ねると納得がいく。
- 所量=客体①(所取)
- 能量=主体②(自証分)の能取的はたらき(機能面では見分④を通して現れる)
- 量果=認識成立の結果(相分③として顕現/ただし自証の保証において)
ポイント:三分は“機能の三相”、四分は“構造の四座”。両者は次元が違うからこそ噛み合う。
4. 一分・二分・三分説の再配当(教学史の三段)
(I)一分説(蔵教・説一切有部的実在論)
- 便宜に対象(相)を“ある”とみなす方便的リアリズム。
- 「随情二諦」(智顗)に対応。外在物の強実在視をとりあえず許容。
(II)二分説(中観・龍樹の二諦=認識論)
- 見分/相分という能所二分の自覚。
- 世俗(色)と勝義(空)が関係として立つ(色即是空)。
- 「情智二諦」に対応:凡聖で受け取りが分かれる同一説。
(III)三分説(法空/自証の次元の顕在化)
- 自証分(主体②)が、見・相(二分)を保証しつつ、その自証すら空(法空)。
- 見・相は依他起の虚仮有、自証も勝義には空。
- 「随智二諦」に対応:聖者の観智による二諦(空即是色の往還が通底)。
※この三段は“物がある”→“関係としてある(空)”→“その関係をも空じる(法空)”という空の深化。