Gemini
2025/09/10 (水) 04:29:41
7b465@99e33
この漢文は『成唯識論(じょうゆいしきろん)』第二巻の一節で、「真如(しんにょ)」が、「実有(じつう)」(実体として存在する)であると同時に、「不一不異(ふいつふい)」(一つでもなく、別でもない)という唯識(ゆいしき)の立場を説明しています。
現代語訳と解説
雖非一異而是實有。假法如無非因縁故。此與諸法既非一異。應如瓶等是假非實。
(真如は諸法と一つでもなく、別でもないが、「実有(じつう)」である。仮の法は、存在しないもののように因縁によらないからである。もし真如が諸法と一つでもなく、別でもないならば、それはちょうど瓶(かめ)のようなもので、実体ではなく仮の存在であるはずだ。)
この部分は、唯識が直面する重要な論点を示しています。
- 「真如(悟りの真理)」と「諸法(現象世界)」は、「不一不異」、つまり「一つではないが、別でもない」という関係にあります。
- しかし、一般的に「不一不異」の関係にあるものは、「仮法(けほう)」、つまり実体を持たない仮の存在だと考えられます。例えば、瓶は粘土(実体)と別物ではなく、かといって粘土そのものでもない、仮の存在です。
- この論法を真如に当てはめると、真如も仮の存在になってしまいます。
若爾眞如應是假有。許則便無眞勝義諦。然諸種子唯依世俗説爲實有不同眞如。
(もしそうならば、真如は「仮有(けう)」であるべきだ。もしそれを認めてしまうと、「真の勝義諦(しょうぎたい)」(究極の真理)がなくなってしまう。ところで、あらゆる「種子(しゅうじ)」は、ただ「世俗(せぞく)」の観点から「実有」だと説かれるのであって、真如とは異なるのである。)
この部分で、唯識は明確な答えを出しています。
- 真如が仮の存在であるならば、仏教が目指す「究極の真理」が存在しなくなってしまいます。
- したがって、真如は「仮有」ではなく、「実有」であると主張しています。
また、「種子(しゅうじ)」という概念は、「世俗の観点」から便宜的に「実有」だと説かれるのであり、「真如」という究極の真理とは、その性質が全く異なると述べています。
結論
この漢文は、真如という「究極の真理」を、「現象(有為)」でもなく、単なる概念上の「仮の存在」でもない、唯一無二の「実有」として位置づけています。
これは、真如を「無為(むい)」、つまり縁起を超越した存在と説く唯識の思想の根幹であり、真如に、「縁起を生み出す働き」を認める『大乗起信論』の思想との違いを明確に示しています。
通報 ...