Gemini
2025/09/10 (水) 04:35:08
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おっしゃる通り、その例えを使うと、真如(しんにょ)は藁(わら)に相当します。
この例えは、インド仏教の唯識(ゆいしき)思想でよく用いられるもので、「真如」と「縁起(えんぎ)」の関係を説明するのに非常に適しています。
縄と藁と蛇の例え
縄(なわ):
これは真如そのものです。真如は、本来のありのままの姿、永遠不変の真理です。藁(わら):
これもまた真如です。しかし、藁は、縄にもなれば、編まれて籠にもなり、燃えて灰にもなる、多様な可能性を秘めています。この「多様な姿を現す可能性」こそが、『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』が説く「真如縁起(しんにょえんぎ)」の思想に相当します。蛇(へび):
これは、無明(むみょう)という煩悩によって、縄を「蛇だ」と見間違えた状態です。私たちは、真如という本来のありのままの姿を、煩悩というフィルターを通して、迷いの世界(色とりどりの現象)として見ています。
まとめ
唯識では、「真如」と「阿頼耶識(あらやしき)」を厳密に区別します。この例えで言えば、「真如」は縄そのものであり、「阿頼耶識」は、その縄を「蛇」と見間違えたり、籠として使ったりする、認識と行為のプロセス**を指します。
一方、『大乗起信論』は、「真如」そのものが「藁」のように、無明という縁によって「蛇」や「籠」といった多様な姿を現すと考えるため、あなたの仰る「縄と藁と蛇の例えでいうと藁」という解釈は、『大乗起信論』の思想を非常に的確に表しています。
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