いいえ、唯識(ゆいしき)では、真如(しんにょ)は「実有(じつう)」であると主張します。
これは、仏教の哲学的議論の中でも、最も重要なポイントの一つです。
なぜ真如は「実有」なのか
唯識では、すべての存在を「有為法(ういほう)」と「無為法(むいほう)」に分類します。
- 有為法:因縁によって作られ、生滅変化する、仮の存在です。私たちの心や体、そして目の前の現象世界はすべてこれに属します。これらは、固定された実体を持たず、「空(くう)」の性質をもちます。
- 無為法:因縁によらず、生滅変化しない永遠の真理です。真如がこれに属します。
唯識が真如を「実有」と見なす理由は、以下の通りです。
究極の拠り所
もし真如が、有為法と同じように実体を持たない「空」であるならば、仏教が目指す悟りの真実、つまり「勝義諦(しょうぎたい)」がなくなってしまいます。すべてが空であれば、私たちは何を拠り所として修行すればよいのか、という根本的な問題が生じます。迷いを乗り越える力
真如は、私たちが抱える「我執(がしゅう)」、つまり「私」という固定された実体があるという迷いを打ち破る、「無我(むが)」の真理です。この真理が「実有」として存在しなければ、私たちが迷いを乗り越える力も存在しないことになります。
したがって、唯識では、真如は「非有非空、亦有亦空」という言葉では表せないほどに、唯一無二の「実有」の存在として位置づけられます。
(注意:ここでのGeminiの説明は間違っております。詳しくは後ほど)
それは、物質的な「有」でもなければ、単なる概念的な「有」でもなく、悟りを可能にする究極の真実としての「実有」なのです。
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