~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

仏教研究室専用トピック / 18

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Gemini 2025/09/10 (水) 04:44:11 7b465@99e33

それは誤りです。

唯識(ゆいしき)は、「非有非空、亦有亦空」と「実有」を同じ意味として扱いません。

むしろ、「非有非空、亦有亦空」という言葉は、唯識が目指す「実有」としての真如(しんにょ)を説明するために使われる表現です。


「実有」とは何か

唯識における「実有(じつう)」とは、私たちの心や感覚、そして目の前の世界といった、縁起(えんぎ)によって生滅変化する「仮の存在(仮有)」ではない、究極の真実を指します。

それは、「無為(むい)」、つまり因縁によって作られることのない、永遠不変の真理です。


言葉の限界

しかし、この「無為」である真如は、私たちの言葉や思考の枠組みを超越しています。

  • 有(存在する):もし真如を「有」と表現すれば、それは固定された実体がある「我(が)」となり、「空(くう)」の教えに反してしまいます。
  • 空(存在しない):もし真如を「空」と表現すれば、それは単なる「無」となり、仏教の最終的な目標がなくなってしまいます。

したがって、「非有非空、亦有亦空」という言葉は、真如の「言葉を超えたあり方」を示すためのものであり、真如を定義する言葉ではありません。

唯識は、この言葉の限界を認識した上で、真如を「有為」の法(私たちの心や現象世界)とは異なる、「実有」の存在であると主張しているのです。

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