Gemini
2025/09/10 (水) 04:05:34
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これは仏教哲学における非常に深い問いで、唯識(ゆいしき)と『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の思想の違いを明確にする鍵となります。
唯識の答え
「阿頼耶識(あらやしき)=真如(しんにょ)」にはなりません。
唯識では、無漏(むろ)の種子は確かに阿頼耶識の中にあると説かれますが、それは「真如そのもの」ではありません。
- 阿頼耶識: 煩悩に汚染された種子(有漏(うろ)の種子)と、悟りへと導く種子(無漏の種子)を同時に含んでいる、「縁起(えんぎ)」の主体です。阿頼耶識は、常に生滅変化する「有為(うい)」の存在です。
- 真如: 縁起を超越した、永遠不変の「無為(むい)」の真理です。
この二つは、水と氷、あるいは水と波の関係に例えられます。
- 水(真如):不変の本質
- 氷や波(阿頼耶識):因縁によって現れる現象
阿頼耶識は、氷や波のように、真如という水を「依り所(よりどころ)」として存在しますが、氷や波そのものが水そのものではないのと同様に、阿頼耶識は真如そのものではありません。
『大乗起信論』の答え
一方、『大乗起信論』の立場は、これとは少し異なります。
- 真如:「真如門」として無為の側面を持つ一方で、「生滅門」として、自ら縁起の働きを現す動的な力を持つと説かれます。
この思想は、真如が「すべての現象を生み出す根源」であると考えるため、「真如即縁起(しんにょそくえんぎ)」という考え方へとつながります。この立場から見れば、真如と阿頼耶識の関係は、唯識よりも一体性が強いと解釈できます。
結論
「阿頼耶識の中に無漏の種子がある」という事実は、唯識では「迷い(有漏)と悟り(無漏)の両方を、阿頼耶識が依り所として顕現させている」と解釈されます。
したがって、阿頼耶識は「悟りの種子を蓄える蔵」ではありますが、「悟りの真理そのもの(真如)」ではない、というのが唯識の答えです。
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