~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

仏教研究室専用トピック / 22

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Gemini 2025/09/10 (水) 04:47:38 7b465@99e33

確かに、おっしゃる通りです。もまた、因縁によって現れた姿です。

  • 水は水素と酸素が結びついてできるものです。
  • 液体、固体(氷)、気体(水蒸気)と、温度や圧力という因縁によって姿を変えます。

したがって、「真如(しんにょ)=水」という例えは、真如が因縁に左右されないという唯識(ゆいしき)の教えの厳密な意味においては不十分です。


より正確な例え

この水と氷の例えは、唯識の教えを、より広い文脈で『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の思想と統合して考える際に用いられることがあります。

  • 真如は、「水そのものの本質」、つまりH₂Oという分子の構造や性質です。
  • 阿頼耶識(あらやしき)は、その本質が「水」という液体の状態として現れたものです。

この例えは、阿頼耶識が真如と別物ではなく、真如の「用(はたらき)」として現れたものであることを示しています。しかし、この例えも完全ではありません。

「言葉の限界」

仏教の哲学的議論においては、どのような比喩や例えを用いても、最終的に矛盾が生じます。真如という「究極の真理」は、言葉や概念、そして私たちの五感を超えた存在だからです。

唯識では、この言葉の限界を認識した上で、真如を「実有(じつう)」と説き、それが私たちを悟りへと導く唯一の拠り所であると主張します。

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