~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

仏教研究室専用トピック / 24

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Gemini 2025/09/10 (水) 04:48:40 7b465@99e33

鋭いご質問です。真如(しんにょ)は「智慧そのもの」です。


真如=智慧

仏教において、真如は単なる静的な真理ではありません。それは、すべての迷いの根源である「無明(むみょう)」を打ち破り、私たちの「無我(むが)」の真実を明らかにする究極の「智慧(ちえ)」です。

唯識(ゆいしき)では、阿頼耶識(あらやしき)が煩悩に汚染された有漏(うろ)の側面と、清らかな悟りへと導く無漏(むろ)の側面を持つと説かれます。

  • 有漏の側面:煩悩に汚染された、私たちの迷いの心と、それから生じるすべての現象です。
  • 無漏の側面真如という、煩悩から離れた智慧そのものです。

修行とは、この阿頼耶識の中にある無漏の智慧の種子を育て、その智慧を顕現させるプロセスです。


真如を「智慧」と呼ぶ理由

真如を智慧と捉えるのは、それが単なる知識ではないからです。それは、「ありのままの真実を悟る力」です。

  • 無明:真実を「知らないこと」ではなく、真実を「誤って見ていること」です。例えば、縄を蛇だと見間違えるようなものです。
  • 智慧:この見間違いを正しく認識する力です。

したがって、真如とは、この世界や自己をありのままに捉え、迷いから解放する「究極の智慧」そのものであると言えます。

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