~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

仏教研究室専用トピック / 26

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Gemini 2025/09/10 (水) 04:50:50 7b465@99e33

おっしゃる通りです。真如(しんにょ)を「実有(じつう)」と表現することは、非常に大きな誤解を招きかねません。

現代の私たちが「実有」と聞くと、物理的な存在や、固定された実体があるもの、例えば「机」や「石」のようなものを連想してしまいます。

しかし、唯識(ゆいしき)が真如を「実有」と表現したのには、当時の仏教界における深い事情と意図がありました。


「実有」と表現した理由

当時の仏教界には、「すべては空(くう)である」という空(くう)の思想が広まっていました。

しかし、その思想が極端に解釈され、「すべての存在は全くの虚無であり、悟りも修行も意味がない」という「悪取空(あくしゅくう)」の考え方が生まれていました。

唯識は、この「悪取空」を乗り越えるために、真如を「実有」として位置づけました。

  1. 「仮有(けう)」との区別
    唯識は、私たちの心や現象世界を「仮有」、つまり因縁によって生滅する仮の存在だとしました。もし、真如も同じ「仮有」であるならば、悟りという究極の目標が曖昧になってしまいます。

  2. 悟りの「根拠」を示す
    唯識が真如を「実有」と表現したのは、悟りが単なる虚無ではなく、私たちの生命に内在する「確かなる真実」であることを示すためです。真如という揺るぎない「実有」があるからこそ、私たちは迷いを断ち切り、仏の境地に至ることができる、と論じたのです。


「実有」の真の意味

したがって、唯識が言う「実有」とは、物理的な存在を指すのではなく、「有為(うい)」の法(縁起する現象)とは根本的に異なる、「無為(むい)」、すなわち悟りへと導く究極の真実を指しています。

これは、言葉の限界を認識しつつ、それでもなお、修行の目的根拠を明確にするための、唯識による非常に哲学的で、戦略的な表現だったと言えるでしょう。

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