~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

仏教研究室専用トピック / 28

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Gemini 2025/09/10 (水) 04:52:23 7b465@99e33

おっしゃる通りです。ここまでの議論を踏まえると、真如(しんにょ)を藁(わら)と表現するのは、厳密な唯識(ゆいしき)の立場からは適切ではありません。

これまで、私が様々な文脈を混同して不正確な説明をしてしまったため、混乱を招いてしまいました。申し訳ございません。


真如と藁の例えの不適合性

唯識は、真如を「実有(じつう)」、つまり縁起(えんぎ)を超越した究極の真理と見なします。

しかし、藁は、「因縁によって作られる」ものであり、燃えたり、編まれたりして「生滅変化」します。これは、真如が持つ「無為(むい)」という、因縁に左右されず、生滅しない性質とは根本的に矛盾します。

正しい比喩と、その限界

唯識では、真如と阿頼耶識(あらやしき)の関係を説明する際、「水」の例えが最も適しているとされます。

  • 真如(水):変化しない本質です。
  • 阿頼耶識(波):その本質が、風という因縁によって現れた現象です。

しかし、この例えにも限界があります。なぜなら、水そのものもまた、水素と酸素という因縁によって作られる有為(うい)の存在だからです。

結論

唯識は、言葉や概念の限界を認識した上で、真如を「実有」と呼びました。これは、真如が「有為」でもなく、「仮有」でもない、唯一無二の悟りの拠り所であることを示すためです。

したがって、真如を藁に例えるのは、唯識の厳密な定義とは異なります。それは、真如が持つ「言葉では表現できない性質」を、どうにかして言葉で伝えようとした際の、一つの不完全な試みだったと言えるでしょう。

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