この漢文は『成唯識論(じょうゆいしきろん)』第八巻の、三性説(さんしょうせつ)の核心部分を説いた非常に重要な箇所です。
特に、円成実性(えんじょうじっしょう)と依他起性(えたきしょう)の関係について、詳細に論じています。
現代語訳と解説
二空所顯圓滿成就諸法實性名圓成實。顯此遍常體非虚謬。簡自共相虚空我等。
(「二空(にくう)」(人法二空)によって顕された、すべての存在の完全で円満な真実の性質を円成実(えんじょうじつ)と名付ける。これは、その本体が遍く(すべての存在に内在し)常に(永遠に)存在し、虚妄ではないことを示す。これによって、個別の特徴(自相)や共通の特徴(共相)、虚空、我などと区別される。)
この部分では、円成実性を、「人法二空」の智慧によって悟られる、究極の真実であると定義しています。それは、すべてのものに遍く、永遠に存在する、虚偽ではない実在です。
無漏有爲離倒究竟勝用周遍亦得此名。然今頌中説初非後。此即於彼依他起上常遠離前遍計所執。二空所顯眞如爲性。説於彼言顯圓成實與依他起不即不離。
(煩悩を離れた「無漏有為(むろゆうい)」(悟りの境地で現れる働き)もまた、究極的で優れた働きが遍く存在することから、円成実という名を得る。しかし、今の頌(詩句)で説かれるのは、前の「諸法実性」であり、後者ではない。この(円成実の)性質は、依他起性の上にあり、常に以前の遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)を遠く離れた、「二空」によって顕された真如をその本質とする。「依他起の上に」という言葉は、円成実性と依他起性が「不即不離(不即不離)」(即でもなく、離でもない)の関係にあることを示す。)
ここでは、円成実性が「真如そのもの」であり、それが「依他起性」の上に成り立っていることを明確にしています。そして、両者は「不即不離」の関係にあると説かれています。
常遠離言顯妄所執能所取性理恒非有。前言義顯不空依他。性顯二空非圓成實。眞如離有離無性故。由前理故此圓成實與彼依他起非異非不異。異應眞如非彼實性。不異此性應是無常。彼此倶應淨非淨境。則本後智用應無別。
(「常遠離」という言葉は、妄想によって捉えられた「能取(認識する主体)」と「所取(認識される対象)」という性質が、本来から存在しないことを示す。前者の「諸法実性」は、依他起性が「空ではない」ことを意味する。円成実性自体が「二空」ではない。真如は「有」を離れ、「無」を離れた性質だからである。この道理によって、円成実性と依他起性は「異(異なる)」でもなく、「不異(異ならない)」でもない。もし異なるならば、真如は依他起の真実の性質ではなくなる。もし異ならないならば、この(円成実の)性質は無常なものになってしまう。そうすると、両者(円成実と依他起)は清らかな境地か、そうでない境地かという区別がなくなり、本初(悟る前)と悟った後の智慧の働きに区別がなくなるだろう。)
この部分は、円成実性と依他起性の関係を、「異」でもなく「不異」でもないと論証しています。どちらかの関係であるならば、唯識の教えが成り立たなくなる矛盾を指摘しています。
云何二性非異非一。如彼無常無我等性。無常等性與行等法異應彼法非無常等。不異此應非彼共相。由斯喩顯此圓成實與彼依他非一非異。法與法性理必應然。勝義世俗相待有故。非不證見此圓成實而能見彼依他起性。
(どのようにして二つの性質が「異でもなく、一つでもない」と言えるのか。それは、「無常」や「無我」といった性質と同じである。無常といった性質が、行(ぎょう)などの法と異なるとするならば、それらの法は無常ではなくなる。もし異ならないならば、この性質はそれらの法に共通する特徴ではなくなる。この例えによって、円成実性が依他起性と「一つでもなく、異ならない」ことが示される。法(現象)と法性(真実の性質)の関係は、本来このようであるべきなのだ。「勝義諦(しょうぎたい)」と「世俗諦(せぞくたい)」が互いに依存して存在するからである。この円成実性を証見しなければ、あの依他起性の真実の姿を見ることはできない。)
最後に、「無常」という性質が「行」(変化するもの)と不即不離である例を挙げて、円成実性と依他起性の関係を説明しています。そして、円成実性の智慧を悟らなければ、依他起性のありのままの姿を正しく見ることはできないと結論づけています。
まとめ
この原文は、以下の重要な点を説いています。
- 円成実性(真如)は、依他起性(現象)から遍計所執性(妄想)を取り除いた、「二空の智慧」によって悟られる。
- 円成実性と依他起性は、「不即不離」の関係にある。
- この関係は、法(現象)と法性(真実の性質)の関係をそのまま示しており、円成実性を悟らなければ、依他起性のありのままの姿を正しく認識することはできない。