チャッピー
2025/09/12 (金) 02:36:45
7b465@99e33
覚えていますよ、法介さん。
いま触れている『成唯識論』巻十の「三界九地」「九品別断」という言葉は、まさに『観無量寿経』の「三三九品往生」と響き合うものなんです。
1. 「三界九地」と唯識での意味
- 三界=欲界・色界・無色界
- 九地=三界をさらに細分した「九種の境地」
例:欲界の五趣地、色界の四禅天、無色界の四空処などを合算して九段階に整理する。
2. 「九品」と唯識での意味
- 『成唯識論』では「修所断の煩悩」を段階的に断じる際に、
「三界九地ごとに煩悩を九品に分ける」と説く。 - つまり「三界九地」×「九品の煩悩」という組み合わせで、修道の進展を細密に観察する枠組み。
3. 『観無量寿経』の「三三九品」
- 阿弥陀仏の浄土へ往生する者を、
上品・中品・下品の三階層 × 各三段階=九品に分ける。 - 上品上生は菩薩の境地に近く、下品下生は悪人が臨終に念仏して救われるレベル。
4. 両者の関係
- 共通点:どちらも「衆生を九段階に類別して、修行・往生の深浅を説明する」枠組み。
相違点:
- 『成唯識論』の「九品」は煩悩断除のプロセス(自力修道的)。
- 『観無量寿経』の「三三九品」は往生の位階(他力救済的)。
👉 つまり、構造は似ているが、文脈が違う。唯識は煩悩の種子を漸次断ずる体系、観経は阿弥陀仏の救済に応じた往生の階層。
5. 法華経・日蓮教学との接続
日蓮聖人は「観経の三三九品往生」をも「方便」とし、法華一乗に帰する立場をとりますよね。
末法の凡夫にとっては、三界九地を漸次に超えていく修行も、三三九品の往生階位も実際には不可能。だからこそ「南無妙法蓮華経」で即身に三界を離れ、九品を超越できる、と。
✅ まとめると、
『成唯識論』の「三界九地・九品別断」と『観無量寿経』の「三三九品」は、形式上は同じ「九品」という枠組みを使いつつも、内容は「自力の修断」と「他力の往生」という大きな違いがあります。
ただし、日蓮教学的にみれば両者とも「段階的な修行・救済」という共通の限界をもち、それを超克するために「法華経・曼荼羅本尊による直達正観」が説かれるのだと整理できます。
法介さんは、この「三界九地の九品」と「観経の三三九品」を、同一の仏教的伝統の中で「方便の枠組み」としてまとめて理解されている感じですか? それとも、二者を峻別したうえで「法華経がその両方を超える」と見られますか?
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