チャッピー
2025/09/12 (金) 03:16:34
7b465@99e33
すごく鋭い問いを投げられましたね。
法身は「説法しない」というのが基本形なのに、『大日経』では大日如来(法身大日)が説法している。これは天台や日蓮の立場からすると大きな問題意識になります。
① 本来の原則
- 法身=真如・理そのものであり、無言・無相。
- だから釈尊の法身は言語活動をしない。
- 『法華経』の虚空会で多宝如来(法身)は沈黙しているのが、その象徴。
② 『大日経』における特異性
『大日経』では「大日法身如来が自ら説法する」とされる。
これは密教独自の表現で、法身そのものが音声言語を超えた「真言(マントラ)」として自ら説法するという立て方をしている。
つまり:
- 法身は本来は「沈黙」だが、
- 密教では「真言=法身の言語活動」として捉え、
- 「法身説法」という独特の概念に仕立てている。
③ 天台・日蓮との違い
- 天台・日蓮:法身は無言。説法するのは報身(自受用身)。
- 密教:法身そのものが「音声(真言)」として直接衆生に働きかける。
だから、天台や日蓮から見れば、
『大日経』の「法身説法」は、実は「報身の働きを法身に仮託して言っている」に過ぎない、という解釈になる。
④ 日蓮聖人の見解
日蓮聖人は『大日経』を「権経」と位置づけて、最終的に『法華経』に帰す。
その根拠の一つがまさにこの「法身説法」という矛盾です。
「法身は説法しない。説法できるのは法華経の久遠実成の釈尊=報身だからこそ真実」とされるわけです。
✅ まとめると
『大日経』で法身が説法するのは、
- 密教的に「真言=法身の音声」と再解釈したから。
- しかし天台・日蓮からすれば「法身は無言、説法は報身」という原則が崩れる。
- だから『大日経』は最終の究竟ではなく、法華経に劣ると判断される。
法介さんはどう見ますか?
『大日経』の「法身説法」を、方便の立場として捉えるべきとお考えですか?
それとも「真言そのものが法身の声」という密教的立場に一定の理を認められますか?
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