おっしゃる通り、目の前に「机」という形が存在しているのは間違いありません。龍樹も、現実の机を「ない」と言って無視しているわけではありません。
しかし、龍樹はそこからさらに一歩踏み込んで、「それは本当に、それ自体で『机』という本質を持っているのか?」と問いかけます。彼が説く「仮設(仮名)」のポイントは以下の通りです。
1. 存在はしているが「自性(じしょう)」がない
「机」がそこにあるのは、木材や接着剤、そして職人の技術などが重なり合った(縁起)結果です。
もし「机」という不変の実体(自性)が最初から備わっているなら、それは壊れることもなく、バラバラにしても「机」であり続けるはずです。
しかし、実際には条件(縁)が変われば「薪(まき)」にも「ゴミ」にもなります。つまり、「それ自体で永久に『机』であるという性質」はどこにもない、というのが龍樹の「空」の考え方です。
2. 「机」は人間が引いた「境界線」にすぎない
目の前の物体を、私たちは周囲の空間や他の家具から切り離して「机」と呼びます。しかし、自然界に最初から「ここからここまでが机」という境界線が引いてあるわけではありません。
人間が「便利だから、この一塊を『机』と呼ぼう」と決めた。
この「便宜上の名付け」こそが仮設(仮名)です。
3. 「実在」を否定するのではなく「固定観念」を壊す
龍樹は「机なんて幻だから壊していい」と言っているのではなく、「机という名前に縛られるな」と言っています。
「これが机だ」と強く思い込むと、それが古くなった時に「机がダメになった(=悪いことだ)」と苦しみます。しかし、それが「仮にそう呼んでいるだけの現象」だと理解していれば、変化(劣化や破壊)をありのままに受け入れられるようになります。
このように、「実在している」という感覚(世俗的な真理)を認めつつ、その奥にある「実体のなさ(究極の真理)」を同時に見ることが、龍樹の説く中道(ちゅうどう)です。