~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

天台智顗の『觀無量壽佛經疏』の研究 / 17

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法介 2025/05/25 (日) 06:01:48

>> 2の【現代語訳】
以下は、天台智顗の『觀無量壽佛經疏』の前文の現代語訳です。


現代語訳:

極楽浄土の世界と苦しみの多いこの世、金や宝石と泥や砂、胎内の獄と華やかな池、棘の林と美しい樹々。これらはすべて、心の清らかさや穢れによって見える世界が異なり、善悪の行いによって現れる世界の粗さや美しさが決まる。形が正しければ影も正しく、源が濁っていれば流れも濁る。だからこそ、極楽浄土に生まれたいと願うなら、十六の素晴らしい観法を修める必要がある。阿弥陀仏を拝みたいと願うなら、三つの清らかな行いを実践しなければならない。このように、教えは段階を追って説かれ、縁によって興される。そのため、阿闍世王が逆らって父を殺し、韋提希夫人が悲しみに暮れて仏に救いを求めたとき、大いなる聖者である釈尊は慈悲をもって機会を捉え、法を説かれた。宝石のような姿が光を放ち、珍しい台座が瑞相を示す。広く美しい世界を示しながらも、最終的には安養の浄土に帰する。末法の時代の人々も、この素晴らしい観法に従って修行すれば、夕日が太鼓を鳴らすように思いを送ることができる。大きな水が氷を結ぶように、瑠璃の地を表し、風が宝の葉を鳴らすように、天の音楽と共に響き合う。波が金の溝を動かすように、経典と調和して響き合う。肉髻を観じて侍者を見、白毫を念じて如来を拝む。目を閉じて命を終えるとき、高い台座に昇り、金の蓮に座して化生する。三つの輩に従って横に超え、五つの苦しみを越えて永遠に進む。これはまさに、微細な行いと素晴らしい観法によって至る道の要術である。この経典は、心の観法を宗とし、実相を体とする。「仏説観無量寿仏」とは、仏が観るべき最上の境地を説いたものであり、正報を挙げて依果を収め、化主を述べて徒衆を包む。観法は十六あるが、仏を観ずることで全てを網羅する。だからこそ、「仏説観無量寿仏」と名づけられている。経とは法を意味し、常を意味する。聖人の金口によって説かれたため、経と呼ばれる。経には五つの義がある。名、体、宗、用、教相である。まず名について。一切の経典には共通の名と個別の名がある。共通の名は「経」の一字であり、個別の名は七つある。人、法、譬えのいずれか、または複数を含む。この経典は、説く者と説かれる内容、人によって名づけられている。教えとしては共通であり、行としては異なる。一から無量に至るまで、行としては異なり、常楽に会することで共通となる。理は名を持たないが、門によって名づけられる。理は門に従って四四十六となり、名と理が通じる。これは一つの教化によって通じることを明らかにする。さらに一つの題に基づいて、仏説は教え、観は行、無量寿仏は理である。教え、行い、理が備わっており、自然に共通と個別の意義を持つ。さらに一字ずつ説明すると、釈論に「行うことは説かれることと同じである」とあり、説は教え、如は理、行は行い、仏は法身、観は般若、無量寿は解脱を意味する。これによって、一つが三つに通じ、三つが一つに通じることを知るべきである。一の中に無量を理解し、無量の中に一を理解する。一字においてさえ無量の義を達するのだから、他の字や題、経典全体においても同様である。だからこそ、経に「もし首題の名前を聞けば、得られる功徳は限りない」とある。このように理解しなければ、どうして無限の功徳を得ることができようか。まず仏を解釈すると、仏は覚りの意味であり、六つの種類がある。涅槃経に「一切衆生はすなわち仏である」とあり、貧しい女が宝を持っているようなものであり、力士の額の珠が円く明るく存在するようなものである。如来蔵経は十の譬えを挙げている。汚れた布に包まれた黄金、土の型の中の像、暗い部屋の中の瓶や盆、井戸の中の七宝。これらは本来持っているものであり、今得たものではない。維摩経に「一切衆生は皆如である」とあり、宝篋経に「仏界と衆生界は一つの界であり、別の界ではない」とある。これは円満な智慧と覚りの諸法であり、すべての場所に遍在し、明らかである。五つの無間地獄でさえも解脱の相があり、愚かで迷っていても、その理は存在している。この理は明らかであり、世間に常に存在している。仏がいても益することはなく、仏がいなくても損なうことはない。得ても高くならず、失っても低くならない。だからこそ、「衆生はすなわち仏である」と言うのである。これは理の仏である。このような理は、仏が説かなければ誰も知ることができない。


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