>> 4の【現代語訳】
以下は、あなたがご提示くださった漢文の現代語訳です。文脈を尊重しつつも、読みやすさを考慮して意訳しています。
現代語訳:
『法華経』にこうある。
「百八十劫のあいだ、仏が現れず、世界は空しく過ぎていった。仏がまだ出現していなかったとき、十方の世界はすべて闇に包まれていた。」
『涅槃経』には次のように述べられている。
「無量の時の中で、如来が出世され、大乗経が説かれたということを、誰も聞いたことがなかった。もし仏が出世されて初めて、智慧の太陽が輝き、三宝(仏・法・僧)の光明を識別することができるようになり、甘露の門が開かれて、十号(仏の十の称号)の妙なる味を知ることができる。」
こうした仏の出現の知らせを聞いたとき、須達長者は全身の毛が逆立った。まるで暗い夜に突然光が差したように、巨大な関所が自ずと開かれたかのようである。これがいわゆる「名前を聞いて仏を知る」という段階である。
観行仏(かんぎょうぶつ)について
「観行仏」とは、仏の姿や功徳を心で観じて修行することである。仏の相好(すぐれた姿)を金像のように観想し、心がその美しい色に向かい、目がそれをとらえる。目を開けても閉じても、明るくても暗くても、常に仏の姿を思い描くことができ、仏と離れることがない。
仏の大きな特徴の海から、小さな特徴が次々と流れ出す。それはまるで劫という単位の時間に及ぶ大水のように広大で、目に見えるすべての世界が仏界であると感じられるほどである。
一仏を念ずることは十方の仏を念ずることと等しく、現在の仏を念ずることは過去・未来を含めた三世の仏を念ずることと等しい。一つの身体、一つの智慧、一つの無畏(おそれなき力)を念ずることも同様である。
仏の色身(物理的な身体)、法門(教え)、実相(究極の真理)を念じること。常に念じて、念が絶えることのない修行が「観行仏」である。
相似仏(そうじぶつ)について
「相似仏」とは、仏の姿を念じることでその相応しい状態に近づく修行のことである。仏の相好を思い浮かべることで、仏の教えに相応しい状態になる。実相の身(真理としての仏)を念じることで、それに似た境地に到達する。
「相似」とは、異なるもの同士でも似ているという意味である。例えば、鍮石(にせものの金属)は金に似ているし、瓜はひょうたんに似ている。また、火に当たれば温かく感じ、海を渡る前にまず浅瀬に入るようなもの。水は冷たいが、飲んでみて初めてわかる。喉が渇いているのに井戸を掘らず、ただ話を聞いても意味がない。
このような相似の状態を略して言えば、『法華経』の中で六根が清らかになる段階がそれに当たる。これを「相似仏」という。
分証仏(ぶんしょうぶつ)について
「分証仏」とは、菩薩が初めて発心してから、段階的に仏の智慧や功徳を部分的に体得していく存在である。
たとえば、初発心の段階で、すべての発願、すべての功徳、すべての智慧、すべての境地を同時に含んでいる。一つの心で三つの智慧(文殊・普賢・観音の智慧)を得ている。
このようにして如来の妙なる色身を得て、どんな衆生にも応じて姿を現すことができる。秘密の教えを開き、「住するところなく、しかもその中に住す」という空の理に基づき、あらゆる色身を現して多様な形をとる。
一つの声でありながら、聞く人の能力に応じて様々に聞こえる。真理の世界から動かずに、すべての衆生に安らぎを与えることができる。三輪(身・口・意)によって衆生を導く者は、八相成道(仏が成仏するまでの八つの過程)を具え、仏としての威儀を示す。
ましてや、九法界(地獄〜菩薩)のあらゆる人々を救うことなど、なおさら可能である。これは「初住」という最初の菩薩位でさえこれほどなのだから、「等覚」(ほぼ仏と等しい位)ならばなおさらである。これを「分証仏」と呼ぶ。
究竟仏(くきょうぶつ)について
「究竟仏」とは、仏道を極め、最高の悟りに到達した存在である。
この境地は、ただ仏だけが知り得る世界であり、「唯仏与仏、乃能究尽諸法実相」といわれるように、仏同士でなければ理解し合うことすらできない。
智慧が極まり、あらゆる真理が一度に円満に具わる。「無上士」とは、もはや断ずべき煩悩がなく、これ以上の存在がないという意味である。たとえるなら、十五夜の満月のように、すべてを具え、星の中でも最も明るい王のような存在である。
これが「究竟仏」の意義である。
仏の名と教えの広がりについて
仏には無量の徳があり、それにふさわしく無量の名号がある。たとえば『華厳経』では十万もの名号があり、また他の経典では一万もの名が挙げられる。三世のすべての仏には共通の「十号」がある。
『維摩経』では三つの名号を挙げるのにすら長い劫(こう)という時間が必要であり、ましてやすべての名号を尽くすことなど到底できない。
仏が説く教えとは、仏が心に懐いていた悟りの喜びを衆生に分かち与える行為である。それが十二部の経典、八万の法蔵、六度(六波羅蜜)、四無量心、その他すべての法門となって現れている。
また、一つの法においても、四つの門(教え、行、因縁、理)に分けて説き、その一門ごとに「四悉檀(世俗・為人・対治・第一義)」の智慧を巧みに用いて、聞く者に利益をもたらす。
それを聞いた者は、喜び、讃え、受け入れ、修行に励み、信心、戒律、精進、念(覚り)によって開発されていく。貪欲、瞋恚、愚痴といった三毒も、氷が溶けるように消えていく。
このようにして凡夫を脱し、聖者となり、仏法の流れに乗るのである。
ある場合には、三つ、二つ、一つの利益が得られることもある。何の利益も得られないならば、むしろ沈黙するのがよい。だが一人の衆生のために一つの法を説くならば、その一つの法門の中に四つの利益が含まれるよう工夫される。
他の三門についても同じである。たった一つの縁によって一つの法を説くにしても、それがこのような広がりを持つのである。