>> 5の【現代語訳】
以下は、ご提示の漢文の現代語訳です。読みやすさと内容の正確性を重視し、原文の文脈を損なわないよう配慮しています。
【現代語訳】
あらゆる縁やあらゆる法(存在)もまた、次第をもって観ずべきである。これを「次第三観」といい、「一心三観」とも称する。
まずは「仮(け)から空に入る観法」、これを「二諦(にたい)の観」ともいう。次に「空から仮に入る観法」、これを「平等観」という。そして、空観を方便として用いることで、最終的に「中道第一義諦の観」に至る。これは、心が静まり滅していくなかで、自然と「一切智(さばじゃ、サルヴァジュニャーナ)の大海」に流れ入るということである。これは『瓔珞経(ようらくきょう)』から取られた語であるが、ここではその意味を解釈して述べている。
仮とは、虚妄であり、世俗の真理(俗諦)である。空とは、精査された真実、すなわち聖なる真理(真諦)である。今、世俗の真理を離れて真理に帰ろうとするがゆえに「仮から空へ入る観」と言う。この場合、仮とは空を得るための手段(方便)である。まず仮を観じて、それが虚妄であると知ることによって、真理を悟ることができる。ゆえに「二諦の観」と呼ぶのである。
この観法が完成すれば、「一切智(いっさいち)」すなわちすべてを知る智慧を得ることができる。
つぎに、「空から仮へ入る観」というのは、もし空に止まってしまえば、それは二乗(声聞・縁覚)の境地と何ら変わらず、仏法を完成することができず、また衆生を利益することもできない。ゆえに、空を観じても空に執着することなく、仮へと入っていく。つまり、病を知って薬を選び、その病に応じて薬を授けるように、衆生に対して適切な教えを与えるのである。これが「空から仮に入る観」と呼ばれるゆえんである。
「平等観」とは、先に仮を破って空を用いたことと、次に空を破って仮を用いたこととの、そのいずれもが平等であるという意味である。破と用の働きが同等であるから、「平等」と称する。この観法が完成すれば、「道種智(どうしゅち)」すなわちあらゆる修行の道を知る智慧を得る。
「二空とは方便である」とは、まず生死を空と観じ、次に涅槃を空と観ずることを意味する。この二つの空が、「遮(しゃ)」の作用としての方便となる。また、最初は空を用い、次には仮を用いるということが「照(しょう)」の作用としての方便となる。
このようにして、心は心として絶えず進み、「一切智の大海」に流れ込む。このとき、二諦(俗諦と真諦)の両方を明らかに照らすこととなる。この観法が完成すると、「一切種智(いっさいしゅち)」、すなわちすべての法の根源を知る智慧を得る。これが「次第三観」である。
「一心三観」とは『釈論(しゃくろん)』から出た教えである。論には「三智は実に一つの心の中にある」と説かれており、すなわち一つの観法の中に三つの観があり、一つの諦の中に三つの諦がある。だからこそ「一心三観」と呼ばれる。
これは、あたかも一つの心の中に「生・住・滅」という三つの相があるようなものである。この三つの相が一心の中に存在するように、「一観の中に三観」があるのである。
この観法が完成すると、「一心三智」を証得する。すなわち「一切種智」である。「寂滅相」とは、あらゆる分別が消えて静寂に至るという意味であり、これが「双亡(そうもう)」の力である。「種種の行や相貌を知る」とは、仮の世界のあらゆる現象を理解するという意味であり、これは「双照(そうしょう)」の力である。
『中論』には「因縁によって生じた法は、すなわち空であり仮であり中である」と説かれ、『釈論』には「三智は実に一心中にある」と述べられているが、これはこの教えを指している。
この観法は非常に微妙である。一でありながら三であり、三でありながら一である。一つの観がすべての観を含み、すべての観が一つの観に含まれる。「一」でもなく、「一切」でもない。これが一切の観を統括する観法なのである。
以下の部分からは阿弥陀仏(三身・三寿・三量)の議論になります。