>> 12の【現代語訳】
ありがとうございます。それでは後半部を分割して、順を追って現代語訳いたします。まずは、「無量壽者」から「報身者。修行所感。法華云。久修業所得。」 までの部分の現代語訳をお届けします。
【原文】
無量壽者。天竺稱阿彌陀佛。本無身無壽。亦無於量。隨順世間而論三身。亦隨順世間而論三壽。亦隨順世間而論三量。
【現代語訳】
「無量寿」とは、インド(天竺)では「阿弥陀仏」と称される。
本来、この仏には実体としての「身」もなく、「寿命」もなく、「量(長さや範囲)」も存在しない。
しかし、世間の理解に合わせるために「三身」(法身・報身・応身)という区別を説き、
同様に「三種の寿命」、そして「三種の量」についても説かれるのである。
【原文】
法身者。師軌法性。還以法性爲身。此身非色質亦非心智。非陰界入之所攝持。強指法性爲法身耳。
【現代語訳】
「法身(ほっしん)」とは、仏の根本である「法性(ほっしょう)」そのものを指す。
師(仏)の規範・軌範としての法性であり、その法性を仏の「身」と呼ぶのである。
この「身」は、物質的な形体でもなければ、心や知恵でもない。
また、五蘊・六界・十二処といった存在の分類にも収まらない。
それにもかかわらず、便宜的にこの法性を「法身」と名づけているにすぎない。
【原文】
法性壽者。非報得命根。亦無連持。強指不遷不變名之爲壽。此壽非長量。亦非短量。無延無促。強指法界同虚空量。
【現代語訳】
「法性の寿命」とは、報いとして得られる命の根本でもなく、時間的な連続性があるわけでもない。
ただ、変化もなく変遷もしないという意味で、それを「寿命」と強いて呼んでいるだけである。
この寿命には、長いとか短いといった量的な意味はなく、延びることも縮むこともない。
あえて例えるなら、それは法界(宇宙の真理)と虚空(空間)のように、限界も量もないものである。
【原文】
此即非身之身。無壽之壽。不量之量也。
【現代語訳】
つまりこれは、「実体なき身」、「限りなき寿命」、「測れぬ量」であり、
通常の意味における身・寿・量とは異なるものである。
【原文】
報身者。修行所感。法華云。久修業所得。
【現代語訳】
「報身(ほうじん)」とは、修行によって感得される仏の身である。
『法華経』には「長い時間をかけて修行した結果として得られた」と説かれている。
ここまでが 法身・報身・三量の概念 に関する第一の区切りとなります。
次回は「応身」や三寿の詳細、そしてそれに続く仏の活動と衆生利益の法門についての訳になります。
はい、こちらも現代語訳を進めます。
現代語訳:
涅槃経に言う。大般涅槃は修行の道を得た故にある。
如如(にょにょ)の智は如如の境を照らし、菩提の智慧は法性に相応して相冥(深く融和)する。
相応とは函(箱)と蓋のように合致することであり、相冥とは水と乳のように一体であることを言う。
法身は身でも非身でもない。智慧もまた応冥して身でも非身でもない。
これを強く報身の智慧と名づける。
法の寿命は寿命でも非寿命でもない。智慧も応冥して寿命でも非寿命でもない。
これを強く非寿命を寿命と名づける。
法の量は量でも無量でもない。智慧も応冥して量でも無量でもない。
これを強く無量を量と名づける。
応身は万物に応じて身となり、連持に応じて寿となり、長短に応じて量となる。
智慧は体と冥合し、大きな働きを起こす。まるで水銀と真金が合わさって諸色の像を塗るように。
功徳と法身があらゆる場所で応現する。
往っては身とも非身ともなりうる。常なる寿命とも無常の寿命ともなりうる。
無量とも有量ともなりうる。
有量には二つの意味がある。一つは無量の量。もう一つは有量の量。
例えば七百阿僧祇(あそうぎ)や八十などは有量の量である。
阿弥陀仏は実際に期限があり、人天の寿命は数えきれないが有量の無量である。
応身仏はこの二つの量の両方に応じる。物事に随って差異ある長短に従う。
しかしこの三身三寿は別々にし一異にすることはできない。もしそうすれば法体に違背する。
三身は一であり三であり、三であり一である。これが玄妙な文の会合であり、名前の釈明の結末である。
次に体について論じる。体とは主たる質である。釈論に言う、「諸法の実相を除けばすべて魔事(誤ったこと)である」。
大乗経は実相を印とし、経の正しい体(本質)とする。
無量の功徳が共に荘厳し、種々の衆行が集まり帰趣(帰着点)となる。
言説問答が詮(解釈)し弁論する。
譬えば衆星が北辰を環繞するように、万流が東海に集まるように、故に実相を経の体とする。
書家の解釈で「礼」は体を訓(教える)すること。体には尊卑や長幼がある。
君主や父の体は尊く、臣下や子の体は賤しい。これを体礼の釈と知るべきであり、極めて尊い法である。
また体は底(基底)でもある。源を窮め底理を極め、淵府を尽くし実際を究明する。これを底と名づける。
釈論に言う「智度の大海は唯仏のみが底を窮める」と。故に底をもって体と釈す。
また体は義を達すること。体を得て意を通達し、妨げなく風が空中を行くように自在である。
すべての異名や別説は実相に背くことはない。
釈論に言う「般若は一法であり、仏は種々の名を説く。故に体をもって経の体を達釈す」と。
次に経宗を明かす。
まず宗体を簡単に述べ、次に宗を正しく明かす。
有人が言うには「宗はすなわち体であり、体はすなわち宗である」。
だが今はこの言い方を使わない。なぜなら宗は二であり、体は不二の体である。
もし宗が二であれば、体は体でない。宗が不二の宗でなければ宗でない。
梁柱が家の綱維であり、家は空であるが梁柱は家の空間を取るもので、梁柱そのものが家の空でも家の空そのものが梁柱でもない。
もし宗体が一つならば過誤が生じる。
宗と体が異なれば二つのものが孤立して調和しない。
宗は顕体の宗でなく、体は宗家の体でない。宗は顕体の宗でなく邪倒無印(邪な倒錯で印無し)であり、体は宗家の体でない。
長文ですが、理解のためにさらに分かりやすくしたい部分があれば教えてくださいね。