~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

天台智顗の『觀無量壽佛經疏』の研究 / 23

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法介 2025/05/25 (日) 06:07:31

引き続き、『觀無量壽佛經疏』の現代語訳を続けます。


【原文】

所謂次第三觀也。若於一觀中圓見三觀。即名一心三觀也。

【現代語訳】

このように、段階を追って修していく観法を「次第三観(しだいさんがん)」という。
だが、もし一つの観法の中で同時に「空・仮・中」の三つの観を円満に見ることができれば、それを「一心三観(いっしんさんがん)」と呼ぶ。


【原文】

故云即一而三、即三而一也。經云若一日乃至七日。心不亂者。佛現其前。

【現代語訳】

だからこそ、「一にして三、三にして一である」と言われるのである。
経においては、「もし一日から七日にわたり、心を乱すことなく念じる者には、阿弥陀仏がその前に現れる」と説かれている。


【原文】

此即相應三昧也。是故佛有二身:一者應身,二者報身。

【現代語訳】

これはまさに、仏と心が調和する「相応三昧(そうおうざんまい)」である。
このため、仏には二つの身(存在の形)があるとされる:
一つは「応身(おうじん)」で、これは衆生を救うために現れる仏の姿。
もう一つは「報身(ほうじん)」で、これは修行の果報として得られる真実の仏の身である。


【原文】

然佛應身隨類現形。報身具足相好。

【現代語訳】

仏の「応身」は、それぞれの衆生の性質に応じてさまざまな姿を取って現れ、
「報身」は、あらゆる仏の相好(仏の特徴・すがた)を完全に具えている。


【原文】

然色像不過應身所現。觀像得定。自見報佛。

【現代語訳】

しかし、私たちが礼拝したり観想する仏の姿(色像)は、結局のところ「応身」によって現されたものである。
けれども、この像を深く観じて心が定まるならば、自然と報身の仏を見るに至る。


このあたりまでが一つの段落になります。

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