~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

天台智顗の『觀無量壽佛經疏』の研究 / 39

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法介 2025/09/07 (日) 09:31:50

T1750.37.0192b25: 第九觀佛眞法身中有五。一明結上。第二次 から
T1750
.37.0193b08: 衆生。皆是經文用無在也 まで

ご提示いただいた漢文は、前回に引き続き善導大師(ぜんどうたいし)の『観無量寿経疏』の一部で、十六観の後半、特に仏や菩薩を観想する段階について詳細に解説しています。


現代語訳と解説:第九観から第十三観

第九観 仏真法身観(ぶっしんほっしんかん)

「第九 観佛眞法身、中有五」
第九の仏の真実の法身を観る観想には、五つの部分がある。

  1. 前の観想(八番目)を締めくくる。
  2. 「次當更觀下」: 「次に、さらに…」という箇所から、仏の身体を観想する。
  3. 「作是觀下」: この観想を行うという箇所から、仏の心を観想する。
  4. 「作此觀者、捨身他世下」: この観想を行う者は、この世を終えて他の世に生まれるという箇所から、観想の利益を挙げて修行を勧める。
  5. 「作是觀者下」: この観想を行うという箇所から、観想が正しいか間違っているかを明らかにする。

「観身大小、高六十萬億那由他恒河沙由旬」
仏の身体の大きさを観想する。その高さは、六十万億那由他恒河沙(ごうがしゃ)由旬(ゆじゅん)である。

(ここからは、その大きさがどれほど巨大か、そしてなぜそのように説かれているかの解説)

「毫相如五須彌山」: 眉間の白毫(びゃくごう)は、五つの須弥山(しゅみせん)のようである。

「眼如四大海水」: 仏の眼は、四大海の水(すべての海の水)のようである。

「何縁佛身得長...」: なぜ仏の身体がそんなに大きいのか?これは、仏の身体が凡夫の想像を超えた存在であることを示している。

「眼見佛身即見佛心」: 仏の身体を見れば、仏の心が見える。身体は心によって起こるため、身体を見れば心がわかる。

「佛心者、大慈悲心是」: 仏の心とは、一切の衆生を救済する大いなる慈悲の心である。

「念佛衆生攝取不捨」: 念仏を唱える衆生は、仏の慈悲によって受け入れられ、見捨てられることはない。仏の慈悲に守られれば、苦しみから永遠に離れて安楽を得ることができる。

「始學名作。終成即是佛」: 修行の初めは「仏を作す」といい、修行が完成して仏となった最終的な境地は「仏はこれである」という。

「多陀阿伽度...」: 如来の十の呼び名(十号)などについて、簡単に三つ(如来、応供、正遍知)を挙げて解説している。


第十観 観音観(かんのんかん)

「第十観観音、中有三」
第十の観音菩薩を観る観想には、三つの部分がある。

  1. 前の観想を締めくくる。
  2. 「復應観観世音菩薩下」: 「さらに、観音菩薩を観るべし」という箇所から、具体的に観音菩薩の身体を観想する方法を説く。
  3. 「作此觀者」: この観想を行う者は、観想が正しいか間違っているかを明らかにする。

「観菩薩法身中有三」
菩薩の法身を観想する部分には、三つがある。

  1. その身体の相を観る。
  2. 「冠中立化佛者、帶果而行因也」: 冠の中に化身の仏が立っているのは、すでに悟りの結果(果)を得ながらも、衆生を救済する修行(因)を行っていることを示している。
  3. 「佛告阿難下」: 仏が阿難(あなん)に告げるという箇所で、観想の利益を挙げて修行を勧める。

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