法介
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2025/09/07 (日) 09:32:00
第十一観 勢至観(せいしかん)
「第十一勢至、中有三」
第十一の勢至菩薩を観る観想には、三つの部分がある。
- 光と神通力の由来を説く。
- 「此菩薩天冠有五百宝下」: この菩薩の冠に五百の宝があるという箇所から、観音菩薩との違いを明らかにする。
- 「除無量劫罪下」: 「無量劫(むりょうごう)の罪を除く」という箇所で、観想の利益を挙げて勧める。
「略無觀法、當不異上」: ここでは観想の方法が省略されているが、前の観想と大して変わらないため、重ねては説かれていない。
「所以觀佛、先作像想、後觀法身」: 仏を観想するにあたり、まず像を観想し、次に法身を観想するのは、仏の法身が精妙で、いきなり観ることができないからである。像想を通じて熟練すれば、法身を観ることが容易になる。
「菩薩、直明法身者」: 菩薩の観想では、直接法身を説いている。
第十二観 普観(ふかん)と第十三観 雑観(ざっかん)
「第十二普觀、普雜何異而爲二耶」
第十二観の普観と、第十三観の雑観は、なぜ別々の観想として説かれているのか。「普觀作自身往想」: 普観は、自分自身が浄土に往生しているという想いを起こすことである。
「雑觀明佛菩薩神力自在轉變非恒」: 雑観は、仏や菩薩が自由自在に姿を変え、大小が不定であることを観想することである。「觀丈六像」: 雑観では、身の丈が一丈六尺(約4.8m)という、凡夫に近い仏の姿を観想する。
「無量壽佛身量無邊下」: 「無量寿仏の身体の量は無限である」という言葉は、観想する対象が大きくても小さくても、すべてが仏の身体であることを示す。これにより、「前は巨大だと説いたのに、今度は小さいのか?」という疑いを取り除くことができる。
全体のまとめ
この部分は、十六観の中でも、仏や菩薩といった「正報」を観想する段階の重要性を強調しています。
- 観想の深化: まずは像を観想し、次に真の身体である法身を観想するというように、観想の段階が深まっていきます。
- 仏の慈悲: 仏は、想像を絶する巨大な身体を持ちながらも、衆生の心に応じて自在に姿を変え、衆生を救済する大慈悲心を持っていることが説かれています。
- 疑いの解消: 仏の姿が巨大であることも、小さい姿で現れることも、すべて仏の「方便」であり、本質的には同じ仏の身体であることを理解させることで、観想に生じる疑いを解消しようとしています。
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