前にさかのぼって、
T1750.37.0187b25:四益者。餘三門亦如是。爲一縁説一法既爾。 から
T1750.37.0187c14:成時。證一切種智。是爲次第三觀也。 まで
ご提示いただいた漢文は、天台大師の「次第三観(じしんだいかん)」を解説したものです。この文章を現代語訳し、その意味をわかりやすく解説します。
現代語訳
「四益」(四つの利益)とは、他の三つの教え(三門)も同様である。(仏は)一つの縁(人や機会)のために一つの法(教え)を説くが、他の様々な縁や法もこれに倣う。
「観」とは観ることである。ここには次第三観がある。
「一心三観(いっしんさんがん)」:まず「仮」から「空」に入る観法であり、また「二諦観(にたいかん)」とも呼ばれる。
「空」から「仮」に入る観法であり、また「平等観(びょうどうかん)」とも呼ばれる。
「二空観を方便(ほうべん)として、中道第一義諦観(ちゅうどうだいいちぎたいかん)に入る」。
これによって、心は絶えず静まり、自然と一切の智慧(薩婆若海)へと流れ込む。これは『瓔珞経(ようらくきょう)』で説かれている。
その意味を解説しよう。
「仮」とは、虚妄(きょもう)な世俗諦(ぞくたい)である。
「空」とは、真実の真諦(しんたい)である。今、世俗を捨てて真実へ帰ろうとするから、「仮から空に入る観」という。
「仮」は「空」に入るための手段(詮)である。まず「仮」を観想し、それが虚妄であることを知って、真実の「空」に会うことができる。だから「二諦観」とも呼ばれる。この観法が成就すれば、一切智(すべての事象を知る智慧)を証得(しょうとく)する。「空から仮に入る観」とは、もし「空」にとどまってしまえば、二乗(声聞・縁覚)と何ら変わりがなく、仏法を成し遂げず、衆生を救済することもできない。だから「空」に留まらず、再び「仮」に入る。病気を見抜き、薬を知るように、病気(衆生の苦しみ)に応じて薬(教え)を与えることができる。だから「空から仮に入る観」という。
「平等」という言葉は、前の観法と比べて言われる。前は「仮」を破るために「空」を使い、今度は「空」を破るために「仮」を使う。この「破る」という働きが等しいので「平等観」という。この観法が成就すれば、道種智(どうしゅち)(衆生の様々な苦しみや性質を知る智慧)を証得する。
「二空を方便とする」とは、初めに生死の「空」を観想し、次に涅槃の「空」を観想する。この二つの「空」は、「双遮(そうしゃ)」(両方を遮る)という方便である。
一方、初めに「空」を使い、次に「仮」を使うのは、「双照(そうしょう)」(両方を照らす)という方便である。
心はひたすらこの真理へと向かい、「一切種智(いっさいしゅち)」(あらゆる事象と真理を完全に知る智慧)を証得する。これが「次第三観」なのである。
解説:次第三観とは何か
この文章は、天台宗の核心的な教えである「次第三観」を説明しています。次第三観とは、凡夫が仏の智慧(悟り)に至るまでの三つの段階を説くものです。
「従仮入空観(じゅうけにゅうくうがん)」:
- 「仮」とは、私たちが普段見ている世の中のすべての現象のことです。天台仏教では、これらは固定された実体ではなく、様々な原因と条件が重なって一時的に現れている「仮の姿」だと考えます。
- この観法は、その「仮の姿」を深く観察することで、それが実体のない「空」であると悟る段階です。この悟りによって、物事に対する執着が消え去ります。
「従空入仮観(じゅうくうにゅうけがん)」:
- 最初の観法で「空」を悟ると、すべてのものが「空」に見えてしまい、衆生を救済する気持ちがなくなってしまいます。
- この観法は、「空」の真理を悟った上で、再び世の中の「仮の姿」に戻るという段階です。この時、衆生の苦しみや病気(煩悩)をありのままに理解し、それに合わせた教えを説くことができるようになります。
「中道第一義諦観(ちゅうどうだいいちぎたいかん)」:
- この段階では、「仮」と「空」という二つの側面を、どちらか一方に偏ることなく、同時に観ることができます。
- この観法が成就すれば、「空」と「仮」を超越した「中道」の真理を悟り、仏の一切種智という最高の智慧を得ることができます。
善導大師は、この天台の「観」の思想を引用することで、『観無量寿経』が説く「観想」という実践が、単なる瞑想ではなく、仏の悟りへ至るための深遠な修行であることを示しているのです。