T1750.37.0187c14: 一心三
T1750.37.0187c15: 觀者。此出釋論。論云。三智實在一心中。得秖 から
T1750_.37.0187c24: 非一切。如此之觀攝一切觀也。 まで
ご提示いただいた漢文は、天台宗の「一心三観(いっしんさんがん)」という教えを解説したものです。これは、前回に解説した「次第三観」よりもさらに深い、究極の悟りの境地を説くものです。
現代語訳
「一心三観」とは、『大智度論(だいちどろん)』に出てくる言葉である。論には次のように説かれている。
「三つの智慧(一切智、道種智、一切種智)は、実は一つの心の中に得られる。したがって、ただ一つの観法でありながら三つの観法でもあり、一つの真理(中道第一義諦)を観ているようで三つの真理(空・仮・中)を観ている。だから『一心三観』と名付けられる。
これは、あたかも一つの心の中に、生・住・滅(しょう・じゅう・めつ)という三つのあり方が同時に存在するようなものである。この観法が成就した時、『一心三智(いっしんさんち)』を証得(しょうとく)する。
また、これを『一切種智(いっさいしゅち)』とも言う。それは、「寂滅相(じゃくめつそう)」(何ものにもとらわれないあり方)と、「種種行類相貌(しゅじゅぎょうるいそうみょう)」(様々な事象のあり方)を、すべて知ることができるからである。
「寂滅相」とは、双亡(そうぼう)(空と仮の両方を捨て去る)の力である。
「種種相貌皆知」とは、双照(そうしょう)(空と仮の両方を照らす)の力である。『中論(ちゅうろん)』には、「因縁によって生じた法は、すなわち空であり、すなわち仮であり、すなわち中である」と説かれている。
『大智度論』に「三つの智慧は、実は一つの心の中に得られる」と説かれているのは、この意味である。
この観法は、非常に微妙である。一即三、三即一である。一つの観法がすべての観法を含み、すべての観法がまた一つの観法である。一つでもなく、すべてでもない。このような観法は、すべての観法を包含するものである。」
解説:一心三観とは何か
この文章は、天台宗の究極の悟りを説くものです。前回解説した「次第三観」が、「仮→空→中」という段階的な修行を説くのに対し、「一心三観」は、その三つの観法が一つの心の中で同時に起こっていることを明らかにします。
1. 「一即三、三即一」の真理
この教えの核心は、「一即三、三即一(いちそくさん、さんそくいち)」という仏教の真理です。
- 「三智実在一心中得」: 仏の三つの智慧(一切智、道種智、一切種智)は、別々に存在するものではなく、一つの心の中で同時に得られるものです。
- 「一観而三観」: 「空」「仮」「中」という三つの観法も、実際には一つの観法が三つの側面を持っているに過ぎません。
2. 「双亡」と「双照」
この観法では、「寂滅相」と「種種相貌」という二つの対立する真理を同時に捉えます。
- 双亡(そうぼう): 「空でも仮でもない」という考え方で、言葉や概念を超えた真理を捉えます。この働きによって、心が何にもとらわれることなく「寂滅」(静かな悟りの境地)となります。
- 双照(そうしょう): 「空でもあり仮でもある」という考え方で、すべてをありのままに捉えます。この働きによって、ありとあらゆる事象(種種相貌)をすべて知ることができます。
3. 次第三観から一心三観へ
「次第三観」は、凡夫が悟りへ向かうための実践的な道筋を示しています。これに対し、「一心三観」は、その修行が完成した時に到達する究極の悟りの境地を説いているのです。
この文章は、仏教の教えが、単なる哲学的な概念ではなく、凡夫の心の中に内在する深い真理であり、それを体験することで得られる究極の智慧であることを示しています。