T1750.37.0187c24: 無量壽者。天
T1750.37.0187c25: 竺稱阿彌陀佛。本無身無壽。亦無於量。隨順 から
T1750_.37.0188a16: 爲有量。 まで
ご提示いただいた漢文は、善導大師(ぜんどうたいし)が『観無量寿経』の注釈書である『観無量寿経疏』の中で、「無量寿」という言葉の深い意味を、仏の「三身(さんじん)」という教えを通して解説している箇所です。
現代語訳
「無量寿」とは、インドでは「阿弥陀仏」と称される。本来、仏には定まった身体(身)も、寿命(寿)も、量(量)もない。しかし、世間の人々が理解できるように三身、三寿、三量を立てて説くのである。
【法身(ほっしん)】
仏の法身とは、仏法そのものである法性(ほっしょう)を師とし、その法性をそのまま身体とするところから名付けられる。この身体は、物質的なものでもなければ、心や智慧でもない。五蘊(ごうん)や十二処、十八界といった世間の概念では捉えることはできない。あくまでも、真実のあり方(法性)を仮に「法身」と呼んでいるにすぎない。
法性の寿命とは、身体に宿る命の根源でもなければ、連続するものでもない。変化せず、変わらないというあり方を、仮に「寿命」と呼んでいる。この寿命には、長いという量も、短いという量もない。
法界(宇宙全体)が虚空のように限りないというあり方を、仮に「量」と呼んでいる。
これらは、身体ではない身体、寿命ではない寿命、量ではない量である。
【報身(ほうじん)】
仏の報身とは、仏道修行によって得られた身体である。『法華経』に「久しく業を修めて得るところ」と説かれ、『涅槃経』には「大いなる涅槃は修行によって得る」と説かれている。
「如(真理)」を観照する智慧(如如智)と、「如」という境地(如如境)が一つとなることで、報身が現れる。この悟りの智慧は、法性と「相応(そうおう)」し、「相冥(そうみょう)」する。
「相応」とは、箱と蓋がぴったり合うように、智慧と法性が一致すること。「相冥」とは、水と乳が混じり合って一つになるように、両者が一体となることである。
法身は「身体でもなければ、身体でないのでもない」。智慧が法性と一体であるならば、智慧もまた「身体でもなければ、身体でないのでもない」。この智慧を、仮に「報身」と呼ぶ。
法性の寿命は「寿命でもなければ、寿命でないのでもない」。智慧が法性と一体であるならば、智慧もまた「寿命でもなければ、寿命でないのでもない」。寿命ではないものを、仮に「寿命」と呼ぶ。
同様に、法性の量も「量でもなければ、量ではないのでもない」。智慧が法性と一体であるならば、智慧もまた「量でもなければ、量ではないのでもない」。量ではないものを、仮に「量」と呼ぶ。
【応身(おうじん)】
応身とは、衆生を救うために、万物の姿に応じて現れる身体である。
衆生の寿命に応じて、連続した寿命として現れる。
衆生のために、長い寿命や短い寿命として現れる。仏の智慧と法性が一体となり、偉大な働きを起こす。
例えるならば、水銀と純金が混ざり合って、さまざまな色を塗ることができるように、功徳と法身が一つとなり、至るところに姿を現すのである。
したがって、本来身体ではないものが身体となり、常住ではない寿命が常住の寿命となり、量がないものが量を持つようになる。
解説:「無量寿」と仏の三身
この文章は、善導大師が「無量寿」という阿弥陀仏の仏号を、仏教の根本原理である「三身」の教えに照らして深く解釈したものです。
三身とは、仏が持つ三つの側面を指します。
法身(ほっしん):
- 真理そのものであり、形や時間、空間に縛られない、仏の究極の姿です。
- 私たちが認識できるものではないため、「身体ではない身体、寿命ではない寿命」というように、否定的な言葉で表現されます。
報身(ほうじん):
- 仏が長い修行によって得た、完全な智慧と慈悲の身体です。
- 報身は、法身と一体でありながら、衆生を救済する働きを持ちます。善導大師は、これを「智慧と法性が一致し、一体となる」と説明し、「寿命ではないものを、仮に寿命と呼ぶ」というように、その深い意味を明らかにしています。
応身(おうじん):
- 衆生を救うために、様々な姿でこの世に現れる仏の身体です。
- 私たちの目に見える釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)や、人々の苦しみ応じて現れる姿などがこれに当たります。
善導大師は、この三身の教えを用いて、「無量寿」という言葉が、単に「寿命が無限である」という意味ではなく、仏の究極の真理(法身)が、修行の力によって智慧の身体(報身)となり、衆生を救うために具体的な姿(応身)となって現れるという、仏の深い慈悲の働きをすべて含んでいることを示しているのです。