~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

天台智顗の『觀無量壽佛經疏』の研究 / 49

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法介 2025/09/07 (日) 09:42:15

有量有二義。一爲無量之量。二爲有
T1750.37.0188a17: 量之量。如七百阿僧祇及八十等。是有量之 から
T1750
.37.0188b15: 故有體也。 まで

ご提示いただいた漢文は、善導大師(ぜんどうたいし)の『観無量寿経疏』の冒頭部分で、仏教経典を読み解くための基本的な枠組みである「釈名(しゃくみょう)」「弁体(べんたい)」「明宗(めいしゅう)」について解説しています。これは、経典の題名(『観無量寿経』)に込められた深い意味を明らかにするための、重要な序文です。


現代語訳

「有量(うりょう)」には二つの意味がある。

  1. 「無量之量(むりょうのりょう)」:無限の量を指す。
  2. 「有量之量(うりょうのりょう)」:有限の量を指す。

たとえば、七百阿僧祇(あそうぎ)や八十などという数え方は、「有量之量」である。
阿弥陀仏には本来期限があるが、人間や天人には数え切れないほどの長さである。これを「有量之無量」と呼ぶ。

仏の応身は、この二つの量(有量と無量)を兼ね備えている。衆生や縁に応じて、様々に姿を変え、その寿命も長くなったり短くなったりする。

しかし、この三身(法身、報身、応身)三寿(法性寿、報寿、応寿)は、別々のものでもなければ、完全に同じものでもない。もし別々であるならば仏法の本体に背き、もし完全に同じであれば不合理である。

「一即三、三即一」という真理をもって、初めて奥深い仏法の文意にかなうのである。

「釈名(経典の題名を解釈すること)」の解説はこれで終わる。

次に「弁体(経典の本体を弁別すること)」について説く。

「体(たい)」とは、経典の根本的な実体のことである。『大智度論』には、「諸法の実相(ありのままの真理)を除けば、その他はすべて魔の働きである」と説かれている。大乗仏教の経典は、この「実相(じっそう)」を印(いん)(証拠)とし、経典の正しい本体とする。

無量無辺の功徳は、この実相によって荘厳され、様々な善行は、この実相へと帰着する。言葉や問答は、この実相を解き明かすためにある。

例えるならば、多くの星が北極星を囲むように、多くの川が東海に注ぎ込むように、すべての仏法は実相へと集まる。したがって、実相を経典の本体とするのである。

書家が「礼」を「体」と解釈するように、「体」には尊敬すべきものや卑しいもの、老いたものや若いものがある。君主や父の身体は尊く、臣下や子の身体は卑しい。このように、「体」という言葉は、最も尊い法を指すのである。

また、「体」とは「底(そこ)」という意味もある。真理の根源の底まで究め、その理の奥底を極めることによって、「底」と名付けることができる。『大智度論』に「智慧の大海は、ただ仏だけがその底を究めることができる」と説かれているように、「底」という言葉で「体」を説明している。

さらに、「体」とは「通達(つうだつ)」という意味もある。この「体」の意を得た者は、すべてに通じ、何ものにも妨げられることがない。まるで風が空を行くように、自由自在で障りがない。

そのため、「一切の異なる名称や説法も、すべて実相と矛盾することはない」。『大智度論』に「般若(智慧)は一つの法であるが、仏は様々な名前で説いた」とあるように、「体」という言葉に「通達」という意味を込めているのである。

次に「経宗(経典の宗旨)」について説く。

まず、「宗」と「体」の違いを明らかにする。ある者は、「宗はすなわち体、体はすなわち宗である」と言うが、私はこれを用いない。

なぜならば、「宗」は二つ(能詮と所詮、原因と結果など)であり、「体」は不二(不二)だからである。
もし宗が不二であれば、宗とは言えず、もし体が二であれば、体とは言えない。

たとえば、梁と柱は家の骨組みであり、家の「空」(空間)は梁と柱によって作られるものである。しかし、「梁と柱がすなわち家の空であり、家の空がすなわち梁と柱である」とは言えない。宗と体が同じであるとすれば、このような過ちを犯すことになる。

宗と体が異なると言えば、その二つは孤立してしまい、宗は体を表す宗ではなくなり、体も宗の本体ではなくなってしまう。そうなれば、宗は間違った教えとなり、体も完全でなくなってしまう

したがって、「異なるが異なるのではない」からこそ宗(目的)があり、「一つではないが一つである」からこそ体(本体)があるのである。


解説:経典を読み解く三つの視点(釈名・弁体・明宗)

この文章は、善導大師が仏教経典を体系的に理解するための、非常に高度な哲学的な枠組みを提示しています。

1. 釈名(経典の題名を解釈する)

  • 「有量」という言葉の二つの意味(有限と無限)を解説しています。
  • 仏の応身(おうじん)が、衆生の能力や縁に応じて様々な寿命や量を持つこと、そしてその奥に「一即三、三即一」という究極の真理があることを説いています。

2. 弁体(経典の本体を弁別する)

  • 「体」とは、経典が説いている最も根本的な実体のことです。
  • 善導大師は、この「体」「諸法の実相(しょほうのじっそう)」、すなわち「ありとあらゆる物事のありのままの真理」であると定義しています。
  • 「体」を「底」「通達」と解釈することで、その真理が、仏の智慧によって初めて究められ、すべての法に通じ、何ものにも妨げられない究極のものであることを強調しています。

3. 明宗(経典の宗旨を明らかにする)

  • 「宗」とは、経典の「目的」や「教えの骨子」のことです。
  • 善導大師は、「宗と体は同じではないが、別々でもない」という、非常に微妙な関係性を示しています。
    • 「能詮(のうせん)」(説く働き)「所詮(しょせん)」(説かれる内容)という二つの側面を持つ「働き」
    • 「不二」(一つでありながら二つではない)という「真理そのもの」
  • この二つが完全に一致すれば、その働き(宗)は意味をなさなくなり、完全に異なれば、教えは真理と結びつかないものになってしまいます。

この解説は、善導大師が単に経典の内容を解説するだけでなく、経典全体が持つ構造と、その背後にある仏教の深い真理を、見事に解き明かしていることを示しています。

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