。
ダンサーってなんで踊ってるのって話になりがちだけど、ダンス観に来る人は何が観たいんだろう。何観てるんだろう。
ダンサーやりながらデリヘルもやってて、そこの社長が「お前、舞台でいろんな客見てきたか?俺ゲージュツの事はわかんねーけど、そちらさんは、客の感性の欲みたいなのを満たしてるような気がすんだよな。それでこっちは性欲でよ。どっちも大変だよなぁ」みたいな事言われた。身体を使うのは一緒でも、場面で欲望の質は違うのかなと思った。
なるほどなぁ、たしかに欲っていうのはあるかもしれない。でもサービスとはまた違うから難しい、、そしたら全部の要望に答えなきゃいけんのかなあ
でも、答えていかなきゃいけなくなるときもきそうだし、それがエンターテイメントとかになるのかもしれないし、でもそうになりたくないし。欲のある人達はサービスに満足できないから文句言ったりするんだもんなあ、、、むずい
私ダンサーやっているけど、別にダンス見るの好きじゃないかも、映画見てる方が好き
お金を戴く以上、相応のサービスを提供する責務はあると思う。最低限の技術やクオリティが担保された上で、更にプラスアルファの所で客の満足感が生まれると思った。ただ踊りに関しては個々の概念が抽象的すぎて、何を持ってダンスたり得るのかが非常に曖昧。ダンサーは客の奴隷では無いけれど、彼らの気持ちを汲み取る作業は一定量必要な気がする。プライベートでダンスを見ようが見まいが、舞台に立った時点でダンサーとしての業務はきちんと果たすのが筋だと思う。
ダンスの祭典みたいな感じで、たくさんのダンサーが集められる現場とかって、見にくるお客さんたちは、だいたいダンス関係者ばかりで、新しいお客さんとか少ないだろうなーって思う。でも、ダンサーもその身内の人たちも、なんだかそれに満足そうで、よく会うであろう身内同士で話して安心してるように見える。ダンスの世界の中で「すごい!」になれる事が、その人たちの楽しみなのかな? じゃあ、その祭典に現れる人たちは、「すごい」を配りに来てるのかな? 素直に純粋な気持ちで、見てるお客さんって、The エリートダンス!みたいになると、少なくなって来ちゃうのかな…?
放っておけばいいんじゃないですか、彼らは彼らの幸福の中で生きているのですから 貴方がその中に入りたいと思うのであれば 話は別かも知れませんが
コミュニティー内で特定の人物を作為的にカリスマ化する戦略は、シーンの底上げを図るように見せかける合理的な手法だと思う。また「すごい!」と讃えられた当の本人ですら祭り上げられている事に気づかない現状が、馴れ合いの仲良しコミュニティーを育てる一つの要因でもあると思う。お手々繋いで素晴らしい作品が出来るならそれに越したことは無いが、持続可能なシステムにするには遠い道のりなのではと思った。そうした環境で培われる教養は、文化的な熟成に歯止めを掛けると思う。そしてオムニバス公演や賞の授与は、踊る場所が与えられる絶好の機会だと思う。しかしながら結局はフェスティバル運営団体や劇場サイドの経済活動で、与えられた歯車としての役割をどう利用するかは完全に個人の力量に委ねられる。いずれにせよ応募者や受賞者が毎年増えてもパイは変わらないので、別のコミュニティーや異業種などへ積極的にアプローチしていく事が開拓の糸口に繋がると思う。
ダンスに限らず、どの世界、業種でもそれは言えるのではないか。 その中で、有無を言わさぬ人になっていければなあといつも思う、それはとても難しい、元々持っているものに加えて、どうやってアプローチしていくか、なんかそういうものを感覚的に選び取るセンスみたいなものが結局一番大事な気がしている。それが備わっている人はいつまでもやめられないし、やめる必要もないと自覚していると思う。
有無を言わさない人って、理想を語る前に、淡々と結果を突きつけてくるような気がする。
ダンスのフェスティバルってなんか物悲しいものがあるなって。ダンサー同士でお疲れーいいねー最高だよって。傷の舐め合い的なもの感じる。もっと素直に映画の感想みたいに、面白いものは面白いってつまんないもんはつまんないってただ感じるままにその場の思ったこと言い合えばいいのに。
傷の舐め合い、すごいわかります。でも、つまんないって思われて、遠ざけられてるのが、いま私たちのいる業界だったりして。。
とあるコンテンポラリーダンス制作会社に行ったので、話聞いてきた。関係者によると、ショーケース形式のダンスフェスティバル(一作品10〜15分程度のオムニバス公演など)は近年急激に普及したもので、2000年代初頭までは各自で単独公演を打つのが主流だったそうだ。様々な作品を一挙に見ることが出来るショーケース、振付家やカンパニーに興味を抱く取っかかりとしては有効。しかしながら小作品での発表では、作品の深化は見込めないであろうとのこと。昨今のダンスフェスティバルやコンペはショーケースの一途を辿り、かつての試食がいつのまにかメインディッシュ化してしまったものと思われる。 そんな話をしている横で、20代半ばの若手振付家らの「楽しめばいいじゃん、俺らバカだから難しいことはわかんない」的なスタンスは興味深かった。深入りせずに目先の楽しみを追求する若者たちの姿勢が、バラエティーに富んだ小作品を一度に楽しむことのできるショーケース時代にフィットしているように思えた。さらに、その道を切り開いてきた振付家に対して真顔で「え、すごいですねー!」と、よく言えるなと思った。気に入られようとしているのか、そもそも興味がないのかよくわからなかったが、先人の話は生きているうちによく聞いておこうと思った。たとえ話が長くて終電逃しても、ネットカフェ代くらいの損失は自己投資としてその後回収できると思う。 そんな彼らの様子を見た40〜50代の関係者たちは、むやみに新しいことを試みたがる若手振付家たちを危惧していた。ので、「パリピのような若手振付家にアンチテーゼを唱える同世代がいることは知っておいて欲しい」と一応、釘を刺しておいた。一括りに「若手」と線引きせずに改めて個人レベルで若い子の意見に耳を傾ければ、世代間の違和感を探るヒントにもなると思う。 某フェスティバル(ショーケース形式)が例に上がり、プロデューサーは「あぁいうのをコンテンポラリーダンスと思いたくは無いが、もはやそう言わざるを得ない状況に陥っている」というジレンマを抱えていた。〝コンテンポラリーダンス〟の衰退も案じてて、昨年度まで高確率で採択されてきた国からの助成金も今年度は外されたらしい。かろうじて保守的な団体へ流れてはいるらしいが、政府や自治体はオリンピックに向けてすでに舞台芸術に見切りをつけはじめているようだ。
現場からは以上です。機会があれば、またレポートします。
私は現代写真家のギャラリーに行って、ダンス以外の世界はどうなんだろうって。写真の業界って、批評家とかあんまりいないんですって。その代わり出版社とか、キュレーターとかが言葉をくれるみたい。みんな助け合っている感じで、かといって、迎合してない感じでいいなって。友達の写真家は、コンテンポラリーダンスは観る機会もないし、よくわかんないって言ってた。写真に比べて、ダンスはやってる人が少ないせいかもしれないけど。
それでいて、変に閉ざされてる世界、って感じもしなかった。不思議。
だらだら続けちゃってすいません、、偶然そこにいた、別のギャラリーの人と話していて。そのギャラリーって結構、大きいみたいなんですけど、新興宗教からいっぱいお金が出てて、若手の写真家のコンペとかやってるんですって。なんか、教祖が写真好きみたいで。この人も、宗教に入ってるのかな?って気になって、聞いたら、全然興味ないです(笑)みたいに言ってて。完全に、ビジネスって感じで。
ダンスの制作さんとかって、やっぱり助成金に頼んなきゃ、って感じだけど、そういう方法もあるんだって。でも、やっぱり宗教って怖いから、私は関わりたくないです。。
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ダンサーってなんで踊ってるのって話になりがちだけど、ダンス観に来る人は何が観たいんだろう。何観てるんだろう。
ダンサーやりながらデリヘルもやってて、そこの社長が「お前、舞台でいろんな客見てきたか?俺ゲージュツの事はわかんねーけど、そちらさんは、客の感性の欲みたいなのを満たしてるような気がすんだよな。それでこっちは性欲でよ。どっちも大変だよなぁ」みたいな事言われた。身体を使うのは一緒でも、場面で欲望の質は違うのかなと思った。
なるほどなぁ、たしかに欲っていうのはあるかもしれない。でもサービスとはまた違うから難しい、、そしたら全部の要望に答えなきゃいけんのかなあ
でも、答えていかなきゃいけなくなるときもきそうだし、それがエンターテイメントとかになるのかもしれないし、でもそうになりたくないし。欲のある人達はサービスに満足できないから文句言ったりするんだもんなあ、、、むずい
私ダンサーやっているけど、別にダンス見るの好きじゃないかも、映画見てる方が好き
お金を戴く以上、相応のサービスを提供する責務はあると思う。最低限の技術やクオリティが担保された上で、更にプラスアルファの所で客の満足感が生まれると思った。ただ踊りに関しては個々の概念が抽象的すぎて、何を持ってダンスたり得るのかが非常に曖昧。ダンサーは客の奴隷では無いけれど、彼らの気持ちを汲み取る作業は一定量必要な気がする。プライベートでダンスを見ようが見まいが、舞台に立った時点でダンサーとしての業務はきちんと果たすのが筋だと思う。
ダンスの祭典みたいな感じで、たくさんのダンサーが集められる現場とかって、見にくるお客さんたちは、だいたいダンス関係者ばかりで、新しいお客さんとか少ないだろうなーって思う。でも、ダンサーもその身内の人たちも、なんだかそれに満足そうで、よく会うであろう身内同士で話して安心してるように見える。ダンスの世界の中で「すごい!」になれる事が、その人たちの楽しみなのかな?
じゃあ、その祭典に現れる人たちは、「すごい」を配りに来てるのかな?
素直に純粋な気持ちで、見てるお客さんって、The エリートダンス!みたいになると、少なくなって来ちゃうのかな…?
放っておけばいいんじゃないですか、彼らは彼らの幸福の中で生きているのですから
貴方がその中に入りたいと思うのであれば 話は別かも知れませんが
コミュニティー内で特定の人物を作為的にカリスマ化する戦略は、シーンの底上げを図るように見せかける合理的な手法だと思う。また「すごい!」と讃えられた当の本人ですら祭り上げられている事に気づかない現状が、馴れ合いの仲良しコミュニティーを育てる一つの要因でもあると思う。お手々繋いで素晴らしい作品が出来るならそれに越したことは無いが、持続可能なシステムにするには遠い道のりなのではと思った。そうした環境で培われる教養は、文化的な熟成に歯止めを掛けると思う。そしてオムニバス公演や賞の授与は、踊る場所が与えられる絶好の機会だと思う。しかしながら結局はフェスティバル運営団体や劇場サイドの経済活動で、与えられた歯車としての役割をどう利用するかは完全に個人の力量に委ねられる。いずれにせよ応募者や受賞者が毎年増えてもパイは変わらないので、別のコミュニティーや異業種などへ積極的にアプローチしていく事が開拓の糸口に繋がると思う。
ダンスに限らず、どの世界、業種でもそれは言えるのではないか。
その中で、有無を言わさぬ人になっていければなあといつも思う、それはとても難しい、元々持っているものに加えて、どうやってアプローチしていくか、なんかそういうものを感覚的に選び取るセンスみたいなものが結局一番大事な気がしている。それが備わっている人はいつまでもやめられないし、やめる必要もないと自覚していると思う。
有無を言わさない人って、理想を語る前に、淡々と結果を突きつけてくるような気がする。
ダンスのフェスティバルってなんか物悲しいものがあるなって。ダンサー同士でお疲れーいいねー最高だよって。傷の舐め合い的なもの感じる。もっと素直に映画の感想みたいに、面白いものは面白いってつまんないもんはつまんないってただ感じるままにその場の思ったこと言い合えばいいのに。
傷の舐め合い、すごいわかります。でも、つまんないって思われて、遠ざけられてるのが、いま私たちのいる業界だったりして。。
とあるコンテンポラリーダンス制作会社に行ったので、話聞いてきた。関係者によると、ショーケース形式のダンスフェスティバル(一作品10〜15分程度のオムニバス公演など)は近年急激に普及したもので、2000年代初頭までは各自で単独公演を打つのが主流だったそうだ。様々な作品を一挙に見ることが出来るショーケース、振付家やカンパニーに興味を抱く取っかかりとしては有効。しかしながら小作品での発表では、作品の深化は見込めないであろうとのこと。昨今のダンスフェスティバルやコンペはショーケースの一途を辿り、かつての試食がいつのまにかメインディッシュ化してしまったものと思われる。
そんな話をしている横で、20代半ばの若手振付家らの「楽しめばいいじゃん、俺らバカだから難しいことはわかんない」的なスタンスは興味深かった。深入りせずに目先の楽しみを追求する若者たちの姿勢が、バラエティーに富んだ小作品を一度に楽しむことのできるショーケース時代にフィットしているように思えた。さらに、その道を切り開いてきた振付家に対して真顔で「え、すごいですねー!」と、よく言えるなと思った。気に入られようとしているのか、そもそも興味がないのかよくわからなかったが、先人の話は生きているうちによく聞いておこうと思った。たとえ話が長くて終電逃しても、ネットカフェ代くらいの損失は自己投資としてその後回収できると思う。
そんな彼らの様子を見た40〜50代の関係者たちは、むやみに新しいことを試みたがる若手振付家たちを危惧していた。ので、「パリピのような若手振付家にアンチテーゼを唱える同世代がいることは知っておいて欲しい」と一応、釘を刺しておいた。一括りに「若手」と線引きせずに改めて個人レベルで若い子の意見に耳を傾ければ、世代間の違和感を探るヒントにもなると思う。
某フェスティバル(ショーケース形式)が例に上がり、プロデューサーは「あぁいうのをコンテンポラリーダンスと思いたくは無いが、もはやそう言わざるを得ない状況に陥っている」というジレンマを抱えていた。〝コンテンポラリーダンス〟の衰退も案じてて、昨年度まで高確率で採択されてきた国からの助成金も今年度は外されたらしい。かろうじて保守的な団体へ流れてはいるらしいが、政府や自治体はオリンピックに向けてすでに舞台芸術に見切りをつけはじめているようだ。
現場からは以上です。機会があれば、またレポートします。
私は現代写真家のギャラリーに行って、ダンス以外の世界はどうなんだろうって。写真の業界って、批評家とかあんまりいないんですって。その代わり出版社とか、キュレーターとかが言葉をくれるみたい。みんな助け合っている感じで、かといって、迎合してない感じでいいなって。友達の写真家は、コンテンポラリーダンスは観る機会もないし、よくわかんないって言ってた。写真に比べて、ダンスはやってる人が少ないせいかもしれないけど。
それでいて、変に閉ざされてる世界、って感じもしなかった。不思議。
だらだら続けちゃってすいません、、偶然そこにいた、別のギャラリーの人と話していて。そのギャラリーって結構、大きいみたいなんですけど、新興宗教からいっぱいお金が出てて、若手の写真家のコンペとかやってるんですって。なんか、教祖が写真好きみたいで。この人も、宗教に入ってるのかな?って気になって、聞いたら、全然興味ないです(笑)みたいに言ってて。完全に、ビジネスって感じで。
ダンスの制作さんとかって、やっぱり助成金に頼んなきゃ、って感じだけど、そういう方法もあるんだって。でも、やっぱり宗教って怖いから、私は関わりたくないです。。