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2026/07/12 (日) 21:55:01
ナビゲーション実験から、経験と伝聞の認知の違いについて知ることができた。その中で私が印象に残った点は、コミュニケーションの「形式」で実体験の痕跡を探すことができるという点だ。語り手の挙動や時間感覚、視点などその人特有の認知の仕方で実体験なのか伝聞なのかを判断することができる。では、実体験と伝聞の伝え方を全く同じ形式にした場合、判断することは可能なのだろうか。コミュニケーションの形式に差が出るのは実体験の方がより具体的かつ鮮明な記憶であり、伝聞の場合は抽象的かつ限定的な記憶であるため、記憶の引き出し方が違うからだと考える。そのため、記憶の引き出し方を全く同じにした場合、実体験か伝聞かを判断するのは難しいのではないか。
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「実体験と伝聞の伝え方を全く同じ形式にした場合、判断すること」は難しくなると思います。たとえば、質問に対して「はい」か「いいえ」で回答させるとしたら、判別は難しいでしょう。ここから、CQに対して回答させるような体験の聞き方は実体験か否かを判別する方法としては危険である、というように考察ができてもよかったと思います。
「実体験の方がより具体的かつ鮮明な記憶であり、伝聞の場合は抽象的かつ限定的な記憶であるため、記憶の引き出し方が違うから」という考察には同意し兼ねます。授業ではほとんど話さなかったからわからなくて当然ですが、この実験の眼目は「どこかに貯蔵されている記憶」という概念を消すことにあります。そして「ある環境と接触した身体が、想起するときにみせる挙動」として記憶を再概念化しようとします。心理学から「記憶」という無用な概念が消えることを願ってやみません。変なことを言っていると思われたかもしれませんが、昔の人は物が燃えるのは物質の中に燃焼する物質が存在するからだと考えていました。その物質は「フロギストン」(燃素)と呼ばれていました。現在では燃焼は「酸化の一形態」と考えられています。記憶もまた「知覚の一形態」と考え直して、心理学から消したいのが私の野望です。あなたはフロギストンがあると思いますか。記憶もいずれそうなります。
5点差し上げます。