26年度専門科目「心理学史」の投稿ページです。
映画のエクソシストは怖かったです。昔の映画でも怖いものは怖いのですね。ですが映画ではなく現実は、悪魔憑きといわれた人々は精神的な病にかかった人々で、神に祈って悪魔を追い払おうとするような治療をしてもあまり効果はなかった、もしくは悪魔憑きといわれた人たちも自分に悪魔が憑いていると強く信じていて、治療のときに催眠のようなものにかかって自分は治った(悪魔が追い払われた)と思い込んで実際治療の効果があったりしたのですよね。科学主義を経て現代になって病気を生物学的に研究するようになってよかったと本当に思います。今回の講義でヒステリーの症状としてカタレプシーが紹介されましたが、その写真図表を見て驚きました。特にスライドの左の方の写真に驚きました。あれは、体が硬直した後に椅子に乗せたのですよね。どういう仕組みで硬直するのか気になりました。というかなぜ体が固まるのでしょうか?
「エクソシスト」はホラー映画の展開点となった作品ですね。現代のホラーに多大な影響を与えています。催眠にかかって治ったと思ったけれど、それは錯覚だった・・・というのではなく、むしろ近年の治療では催眠や悪魔祓いに類する方法が見直されているところもあります。なぜ体が固まるのか?これは謎ですね。しかし、暗示にかかると身体が超人的な力を発揮することはよくあるのです。これについては次回の話で。 3点差し上げます。
今回の講義ではもの憑きが精神病に変わる流れを学ぶことができてよかったです。狐憑病説のスライドに、この病を狐憑きと信じるのはおおむね婦女子や少年たちであり、ゆえにこの病は大抵婦女子や少年たちに存在するとありますが、どういうことなのでしょうか?なぜ、婦女子や少年たちがそれ以外の人たちより「狐憑き」を信じているのでしょうか?昔は、日本の人々は村などの狭いコミュニティで暮らしていて、例えば何か不幸があった人が村にいたら、村の女性たちや少年たちが「狐憑きだ」と噂話をして盛り上がっていて、ほかの人たちより狐憑きを信じていたというようなことがあるからなのでしょうか。また、私は昔の日本の村や集落にはそういう陰湿な一面があると思っていますがこれは偏見ですか?
コメントありがとうございます。 それは、当時、女性や子供の知的判断能力が低いと考えられていたという意味です。ベルツは判断力が低いので迷信にとらわれやすいと考えていたということですね。実際にそういうことはないとは思うのですが。4点差し上げます。
動物憑依や脳病、透視など現代聞いたらそんなわけないと思いますが、当時の人には存在を疑うような人はいましたか?みんながみんな純粋に信じていたのか不思議に思いました。精神病院法を制定されてとき、精神障害者にとってよくするために制定されたはずなのに、当人の周囲の視点に変えるとかえって迷惑になっていて、何が正しいのかとても難しい問題だなと遺憾しました。
みんながみんな信じていたのではないと思いますが、かなり多くの人が信じていたようですね。当時の説話には、村に巨大な化け物が出て、みんながおののいたが、正体はタヌキの悪戯だったということになりみんな安心した。というのがあります。ここでは、正体が「タヌキ」であったことで納得されていて、科学的な解明は何もなされていないというところが面白いですね。 逆に、現代は何でも科学的に説明されると納得してしまうというのも、変ではないですか? 4点差し上げます。
質問です。精神病と精神遅滞はいつ分けられたのでしょうか。クレペリンが精神病の分類の中で精神遅滞を分けたので、そこで初めて区別されたのかと考えていましたが、少し前にダウン医師が知的障害児のための施設を開設していたので気になりました。知的障害の生物学的原因を発見するのは1900年代以降だと思うのですが、それ以前は複数人の精神病患者を観察した結果ふんわりと違いを見分けられたという感じなのでしょうか。
明確にいつからかとは言えませんが、1900年頃にビネー(ヒステリーの催眠療法のシャルコーの弟子)が知能検査を作ったあたりで、標準的な知能、それから遅れた知能という定義ができたのだろうと思います。「遅滞」という言葉には、発達が遅れているというニュアンスがありますが、これはビネーの影響がありそうですね。5点差し上げます。
今回の講義で私は、呉秀三の精神病を患った人のための法整備、待遇などの考え方の輸入、さまざまな学んだことを使い良い環境を作っていった行動力がとてもすごいと感じました。結果は予算などで環境整備が間に合わないところもあったとありました。しかし、個人的にはまず表立って劣悪な環境をなくすという考え方を取り入れてしまうというのは、そこからの環境を整備するきっかけを作ったと思いました。 質問 神社で眷属とされている狐も人に憑くとされていましたか。それともそこらへんの狐が憑くという認識だったのでしょうか。 お金持ちの家に狐が憑いているとして排除され、没落していった。そのようにありましたが、避けられるのは一家が途絶えるまでですか、それともある程度貧乏になったらまた仲間として受け入れられていたのでしょうか。
呉秀三は確かに偉大な人物だと思います。 憑依するのは「そこら辺の狐」ではなく、霊力を持った魔獣です。いつまで忌避されるかは難しい問題ですが、それは共同体の人々が忘れてしまうまでですね。「我が家は憑きもの筋だ」と名乗るわけではなく、周囲のもたちが「あの家は憑きもの筋だ」と噂するという形で憑きもの筋は実体化するので、誰も噂しなくなれば消えるということですね。5点差し上げます。
今回の講義で、私はゲシュタルト心理学について今までの講義で学んだヴントの要素還元主義やfolk phychorogyの批判としての分野、ゲシュタルト心理学の基盤とは何かを学ぶことができました。特に全体論、能動性について今まで意識してこなかった自分の行動や考え方にもゲシュタルト心理学を元に考えられる法則などが当てはめられているということを知りました。個人的にはゲシュタルト心理学の考え方は現代でひとつの学問として残っていても良いと感じるくらい意識に対する認識として理解しやすいと思います。これらの考え方が現代の学問の中にも散りばめられるような形で残っているのにも納得が行きます。 質問: ヴントはキリスト教の許される範囲での心理学として、要素還元主義などの意識に関する研究を行っていて、それら以外の無意識の分野などを民族(文化)心理学として後世に任せたと言うことですが、もしヴントがキリスト教に忠実ではなかったり、これらの研究にキリスト教の影響がなかった場合、心理学の無意識に対する研究はより早く発展していたのでしょうか?それともそれらの研究の進歩は変わらなかったのでしょうか。
ゲシュタルト心理学が衰退したのは、おそらく、個別の事例は示したが理論を示し得なかったことにあるのではないかと思います。「なんとかの法則」はいっぱいありましたが、それらを統一的に説明できる枠組みは示されませんでした。これを引き継ぐのが、生態心理学のギブソン(いずれやります)ではないかと考えています。 歴史に「たら、れば」は禁物と言われますが、あえて推測すれば、ヴントは要素還元主義に立っていたのでこれと相性のよい、大脳の研究に向かったのではないかと思います。つまり、ヒトをモノとして扱う研究に向かったということですね。これはキリスト教的にはアウトです。そしてもし大脳の研究に向かったとしたら、無意識ではなくむしろ意識に着目したのではないかと推察します。というのは、大脳の活動を我々は意識できません。すなわち大脳の活動は無意識裏に進んでいます。このような無意識的な大脳活動から、意識がどのように生まれるのかに関心が持たれたのではないかと。これは現在の脳研究と同じですね。 6点差し上げます。
今回の授業では、ゲシュタルト心理学の考え方とヴントの要素還元主義との対比を理解することができました。時系列をきちんと把握していなかったので、ヴントは先駆けのようなイメージだっただけに、登場が意外と遅いんだなという印象でした。ゲシュタルト心理学は、直感的でより身近に感じられる分野に感じられて分かりやすかったので、全体論が要素還元主義と対立の関係ではなく、どちらの考え方も取り入れた折衷案のような考えも出せそうだなと思ったのですが、その純粋な研究者はあまりいないという話を聞いて残念でした。 質問)今回学んだ能動性というものとスキーマの存在がかなり近しいものに感じたのですが、関連性や何か明確な違いなどはありますか?
おそらく物理学の発展によるものと思われますが、魂(soul)の知的活動部分(知覚や問題解決)だけを取り出した「精神」(mind)というものを仮構し、刺激の物理的強度の変化と心理的強度や、問題解決の複雑さと解決までの時間の関数関係を探る研究が出てきました。ヴント以前のこの領域は、精神物理学と呼ばれます。代表的な研究者としてグスタフ・フェヒナーが挙げられますが、以前の授業でも申し上げたように、フェヒナーは魂や死後の世界の存在を信じていました。この流れからヴントが心理学を立ち上げるのですね。時代的には19世紀中盤から末の自然科学隆盛期です。 全体論と要素還元主義をどう折衷できるのか知りたいですね。「足して2で割る」という解決は、対立する立場があるとしばしばとられる方途ですが、個人的には一時凌ぎにすぎません。ある視点では全体論が妥当に見え、別の見方をすれば要素還元主義が正しいような、両者を弁証法的に止揚した第三の道が出てくることが期待されます。 スキーマという用語は何人かが使用としていますが、バートレットやピアジェの概念であれば能動性が含まれた概念といえますね。ピアジェの理論では「シェマ」と呼ばれますが、スキーマをフランス語で言っただけです。彼の有名な考え方に、シェマへの同化やシェマの調整がありますが、これは能動性が含まれた考えではないかと思います。バートレットの概念は認知心理学の流れの中で、知識の構造という静的なイメージを持たされてしまいましたが、バートレットはゲシュタルト心理学の影響を受けているので、元来彼の思想には能動性が含まれています。 6点差し上げます。
今回の採点対象となる投稿は締め切りました。
コンピュータの発展によって便利になり、人間の発展は停滞したかと思いきや、新たにそこから学びにもつながる(認知革命)ということで、人間の発展(進化)は貪欲ですごいなと思いました。古典的条件づけとオペラント条件づけについて理解が曖昧なままでしたが、今回の授業で詳しく丁寧に教えていただき、何を「学習」しているのか、しっかりと理解することができました。先生方が授業に出ててくるような人と関わりがある(孫弟子)と聞いて、すごい先生に教えてもらっているなと思うと同時に、世代が思っていたよりも近くて、心理学は短い期間でものすごい発展をしたんだなと改めて実感しました。
コンピュータは生活を便利にする道具として今日しばしば語られますが、認知革命でもたらされたのは、「人間をコンピュータのようなものと考えると、人間のやっていることは情報処理(プログラムに従ったデータの加工)であり、認知や行動は処理の出力とみなすることができる」というたとえ(コンピュータアナロジー)です。このたとえが革命的なのは、人間が心の中でしていることがプログラムとして表現できること、実験や観察によってこのプログラムをより適切なものに書き換えていけること(より心の仕組みを正確に理解することになること)が得られたことにあります。心を表現する言葉が得られたということですね。 二つの条件づけの区別と適切な理解は、ついでに話した余興的なもので、心理学史的にはさらにこの二つが起源を異にする(パブロフとソーンダイク)ことを銘記してもらえると嬉しいです。 学問というのは伝統芸能ではないので、師匠をいずれは超えていかないとならず、仰ぎ見ているだけではかえって師匠不幸というものです。師匠が偉くても弟子はそうでもないという実例は数えきれないほどあるので、自分が学んでいることが学問的に価値あることかを皆さんには判断していただきたいと思います。盲信はいかんよ。 4点差し上げます。
今回の授業では、ゲシュタルト心理学がギブソンによって行動主義との弁証法的に生態心理学として復活したとわかりました。その大きな要素は知覚を要素に分けて考えるのではなく、光を普遍的にピックアップすることで全体と捉え(能動性?)変わらないもののまとまりを不変項とすること、それらが各個人の能動性を持って確立していることにあると考えました。行動主義やヴントから続く要素還元主義の考え方と知覚と身体の関係性などからも行動主義と現象学のふたつの正しいと考えられる部分から構成されてることがわかりました。個人的にはゲシュタルト心理学の様々な考え方に納得していたためこのような形で新しい学問や科学の発展に関わっていると分かりとても嬉しい気持ちです。行動主義と現象学の発足の年代の差があったとは思いますがもう少し早く2つの理論の考え方を織り交ぜて考える学問が出てくることは不可能だったのかと感じると共に学問として成立するまでにどのようなプロセスを踏んできたのか気になりました。
質問:生態心理学の考え方がとても自然科学的なものなのに対しゲシュタルト心理学、現象学の考え方や法則を多く用いているように見えたのですが、ギブソンの考え方としては行動主義の理論は多くが間違っていると考えていたのでしょうか?
包囲光配列の不変な部分を構造(パターン)として検知することが知覚であると考えるのが生態心理学です。ゲシュタルト心理学の全体性が、光のパターン(不変項)として環境に実在するとした点で、ゲシュタルトは主観ではなく実在するものと捉え直されました。この不変項は、動物が能動的に動くことによって検出されます。またその動物がどういう身体構造なのかによって検出される不変項は異なります。要素還元主義は取りません。行動主義と共通するところは、ゲシュタルト(不変項)が主観的産物であることを否定し、実在するという立場をとったところにあります。行動主義も、意識内容という主観ではなく、行動という実在するものを対象にすべきだと主張しましたね。 ギブソンに先駆けて、行動主義と現象学を弁証法的に止揚しようとした人として、モーリス・メルロ=ポンティを挙げられるかもしれません。現象学者と呼ばれていますが、身体の役割に注目し、しかも生理学的・解剖学的身体ではなく、能動的に動き回る身体の重要性を主張したところなどギブソンそのものです。しかし彼は、光の構造の中に対象を特定する情報(不変項)が実在するというところまでは行きませんでした。 ギブソンの考え方は、行動主義のような客観主義でなく(だから知覚体験は認める)、かつ現象学のような主観主義(環境および不変項が実在すること、すなわち単なる主観的体験ではないことを認める)でもありません。行動主義が間違いであるとギブソンが言うとしたら、まず動物の能動性を考慮していないこと、そして知覚体験といういわゆる主観的な意識経験を認めないことを挙げると思われます。 7点差し上げます。
ギブソンによる現象学と行動主義のジンテーゼである生態心理学が、個人的に腑に落ちる考え方でした。 質問)ギブソンは元々生態心理学的な考えを持っていたのですか?それとも、ワトソンやヴェルトハイマーなどの考えからインスピレーションを受けてのものなのですか?
パイロットの適性検査と訓練プログラムの開発という、実世界での人間の知覚と行動を扱わざるを得ないところから、おのずと生態学的発想を有するに至ったのだと思われます。詳しいことはGibsonの伝記(たとえば「伝記ジェ-ムズ・ギブソン: 知覚理論の革命」とか)が何冊か出版されているのでそれを読んでいただくか、河野哲也さんや染谷昌義さんといった哲学者が論考を著しているので、そちらを参考にされるとよいかと思います。 4点差し上げます。
今回の授業でギブソンの動きに関する考え方などが、戦争により、パイロットが必要とされる時代背景と結びついて出てきたと学びました。ギブソンの考えた空軍パイロットの訓練プログラムや動きながら物事を認知していくという考え方は、現在でも自動車などの免許を取得する時に行う運転シュミレーションにも生きてきているのかなと考えました。
おっしゃる通り、フライトシュミレーターは包囲光配列の流動に基づいて作られていますし、自動車運転についても同様です。戦争は不幸な事態ですが、現実的な問題を解決する必要、しかもそれが死活問題である状況ですので、学問は発展しやすいかもしれない。 5点差し上げます。
空書は手で書いて覚えたなごりですが、現代は何でもスマホで漢字を調べて覚えるとなると、現代の空書はスマホで文字を打つような仕草になるのでしょうか。それとも文字を打つ仕草は文字自体を書いているわけではないので空書は成立しないのでしょうか。
スマホ以前にワープロというものが普及し、この道具の導入がどういう影響を与えるかが議論されたことがあります。しかし、たいした結論は得られていなかったと思います。初等教育で「書いて覚える」と教育が続く限り、あなたの前提「空書は手で書いて覚えたなごり」からすると、空書は現在と同様に残る可能性があります。ちなみに空書を最初に世に送り出したのはフランス人(正確には、フランス人の妻を持つ日本人男性が紹介した)で、日本人学生が一斉に空書を始めるところを目撃してたいへん驚いたのだそうです。ということは、フランスには空書はないようです。 話を戻します。仮に筆記による教育が希薄になり、打鍵という形での書字教育になった場合、あなたの前提「空書は手で書いて覚えたなごり」からすると、空書はなくなるという結論が導かれます。聞くまでもなく、そういう結論が出るように、あなたは前提を置いてしまっています。それでもこの問いが有効であるようにするのであれば、「フランス人も単語を書いて覚えているのではないか」と疑い、「同様の書字教育をしているのにどうして日本人だけに空書が生じるのか」と、「空書は手で書いて覚えたなごり」という前提を疑うようにするとよいのではないかと思います。問いの立て方を工夫するとよいと思います。 4点差し上げます。
特定の人間=真の値(平均値)+誤差である。裁判では、特定の人間(被疑者の自白、証人の証言など)を相手にするが、そのときその人間が平均値に当てはまる人間か当てはまらない例外かどうか断定できない。判断材料としてその人の言ったことの経験則をみるというが、これはあまり当てにならないと私も思う。特に臨場感は出そうと思えば誰でも出せると思う。その人が表現力や想像力が豊かだったら臨場感を出すことができるだろうし、刑事ドラマやミステリー小説などをよく読む人も、臨場感を出すことができるかもしれない。私は最近ケイゾクというドラマを一気見したので、そのドラマの中に出てきた犯行の描写を詳細に説明したり臨場感を出したりできるかもしれない。自分が罪を犯していないのにそのドラマで得た知識を使って自白するというのは自分の首を絞めている行為だが、何日間も終わるかどうかわからない取り調べで精神的に追い詰められたら後のことを考えずにそのように自白するかもしれないと思った。
授業の内容を理解していることを、自分の経験を引用することによって、的確に示していると思いました。実感ができて何よりです。 最初の三行はのちの議論の前提として提示したのかと思いますが、もしそうであれば、議論の前提にしていることがわかるように書き方を工夫した方がよさそうです。また、その後の議論は経験則が確率的言明であることによって、特定の人間が経験則に合致する一般的な人間なのか、例外的な人間なのかが決定できないという不都合が生じることを言いたいのだと思いますが、そうなると前提とすべきは「特定の人間=真の値(平均値)+誤差」でいいでしょうか。ここから、「経験則が確率的言明である」ことが見てとれますか。 5点差し上げます。
今回の授業でコールバーグ理論をギリガンが新たな視点から批判しそこから生まれた「正義の論理」「ケアの倫理」という考え方が、ケアや女性についてなどの議論を活発にしていったという流れとそれぞれの理論を理解することができました。 質問 ギリガンへの批判に「発達」というパラダイムにしばられていて、結局倫理にをつ優劣けることになるというのがありましたが、なぜそのパラダイムにとらわれると倫理に優劣をつけるということになるのですか?
身体的な発達においても、個体のの上よくどのような形に発展していくのかは環境との関係によって左右されます。時間の経過とともに絶対にこうなるということは言えません。敏感な特性が、芸術に恵まれた環境では創造力として開花するかもしれませんが、恵まれない環境では不安の強さや傷つきやすさとして発現するかもしれません。 後に出てくるものが、それより前のものよりも優れている、優れている方向に変化していくのが当たり前、という思い込みが「発達」「進化」という考え方には色濃いですが、かならずしもそうとは言えません。環境が異なれば、能力や考え方にも差異が生まれますが、それらの優劣を言うことはできません。生存する条件が違うから、考え方が異なっているだけかもしれません。 ましてや道徳観や知性といった多要因が影響することについては、文化環境によって左右される部分が大きく、西欧的社会において適合的な考え方が、他の社会、女性社会において適合的であるとは言い切れません。研究者の多くが、自身が西欧男性社会中心の価値観のバイアスに縛られていることを自覚できず、西欧男性社会に適合的な価値観を「完成形」で、それ以外の価値観を「未熟」「野蛮」とみなすのではなく、多様な発展がありうることを許容する必要があるのかもしれません。 重要な質問ですね、6点差し上げます。
エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』について。現代にも権力からの解放と自分らしく生きる自由は存在していると思いますが、ファシズムにはあまり発展していないように感じます。この理由について先生のご意見を伺いたいです。それと簡単な話ですが、私は大学生になってからこれまでのような学校のシステムから解放され、結果として自由を重荷に感じることがありました。なので、フロムの考えは個人規模でも確かに存在している心理だと実感しました。自由から逃走しないために自立した大学生活を送りたいと思います。
この辺りは認識の差なのかもしれませんが、現在ファシズムに発展していないかと言えば、むしろドイツにおけるネオ・ナチの台頭、日本を含む各国の右傾化と防衛費の拡大など、第2次世界大戦前と似た動きが急速に広がっています。それが旧来のファシズムと同じと言えるかはわかりません。現代的な特徴としては、ポピュリズムと呼ばれる大衆迎合的な考え方の広がりがあるでしょう。これは、ひろゆき氏に代表されるように、エリート官僚主義を大衆目線から批判しつつ人気を得ていくというようなものです。ドナルド・トランプもそうですね。このような動きが起こる背景には、フロムが指摘したような不安があるのかも知れません。自由からの逃走が起こるかどうかを、あなた個人の問題として考えるのではなく、なにがそのような逃走を起来させるのか考えるのも良いかと思います。が、そうなると心理学と社会学の結び目の学問になりますね。よい問題意識かと思います6点。
戦時中で日本を訪れることができないとはいえ、ルース・ベネディクトが日本を一度も訪れずに日本文化を文献や聞き取りだけで分析して本を出したことがすごいなと思った。しかもそれがしっかりと当時の日本の文化の分析をできていたというからすごい。日本人は「恥」を重んじる、西洋人は「罪」を重んじるというが、現代はどうだろうか。西洋人はわからないが、日本人の「恥」を重んじるというのはあまり変わっていないと思う。昔と大きく変わったことといえばデジタルが普及したことだと思うが、SNSの炎上とかも恥を重んじすぎて起こることなのかなと思った。
「罪」というのが基準やルールに対する違反の感覚だとすると、「恥」は相手からどうみられているのかに関係すると言われています。これまでの社会が確固としてルールに規定されていたとしたら、近年はルールよりもウケるかいなかが重視される(ポピュリズム)ようになっています。これによって、世界中の誰もが「いいね」を気にするようになり、「恥」の意識のほうが強まっている可能性はあります。よい着眼点。6点差し上げます。
第14回(7/29)授業の投稿期限は8/1(土)の午前9時、第15回(7/31)授業の期限は8/3(月)の午前9時になります。
色々な学会やらローカルな学派がどんどん生まれていっているということに驚きました。臨床心理学概論では、技法的折衷や理論的統合を行うと学んだので、学派とかがまとめられてなくても心理療法では特に問題はなさそうでよかったですが、論文などの審査でローカルすぎる学派の方に審査されると落とされるというのはなんだか理不尽だなと思いました。心理学に限ったことではないですが、社会的な要因で素晴らしい発見も無かったことにされてしまうことは今回の話を聞いていて本当にありそうだなと思いました。
心理療法って、要するに治りゃいいという考えに基づいている、と言ったら言い過ぎですか? 村澤先生。臨床心理学は、正統医学と民間療法の区別がない状態。「技法的折衷」「理論的統合」...、いい言葉だww やっぱ心理学って統合されてないんだよね、前パラダイム状態。 査読まつわる問題は仕方がないと言えば仕方がない。私の友人に山本くんという人がいるのだけれど、「新しいテーマは古い方法で。古いテーマは新しい方法で」というのが査読を通る基本だと院生時代に主張し、これを「山本の法則」と呼んでいた。テーマと方法の両方が古いと「いまさら」と言われ、両方新しいと「なんだかわからない」と言われる。まあ、そんなもんなんだけど、どこかに理解者はいる(作れる)。日本がダメなら世界に出るしかないっす。 村澤先生の意見が聞きたい。
ゲシュタルト心理学について。私は、森先生の授業であったように、電光掲示板の流れるLEDを文字として捉えることができる、という例えでようやくゲシュタルト心理学を理解しました。どこかに応用される心理学、というより人間の知覚を解明するための心理学なのだと割り切って学んでいました。しかしやはり何かに応用したい、と考えました。15回目で話があがったように、AIとゲシュタルト心理学の結びつきにはとても興味を惹かれました。私はゲシュタルト知覚は人間にしか出来ないと考えています。AIはコネクショニズムで一つ一つの要素を拾って答えを算出し、その過程を学習している。一方で人間は要素を処理する複雑な過程を持ちながらも過程で終わらせ答えだけを見る。この過程が人間とAIの違いだと思います。そこで、人間にしかゲシュタルト知覚ができないのなら、それを応用してアンチAIフォントを設計できる可能性があるのではないかと考えました。私は実際に、ゴシック体のフォント「あいうえお」に人間には正しく認識できる程度に落書きを足して、ChatGPTに読み込ませました。AIの結果は「あいちゃん」だったので、人間のゲシュタルト知覚は十分に使えるのではないかと考えました。 (森先生レポート)
おもしろいことしましたね。知識を獲得するだけでなく、使ってみる、試してみることは大切ですね。そこを大いに評価したいと思います。 35点差し上げます。
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映画のエクソシストは怖かったです。昔の映画でも怖いものは怖いのですね。ですが映画ではなく現実は、悪魔憑きといわれた人々は精神的な病にかかった人々で、神に祈って悪魔を追い払おうとするような治療をしてもあまり効果はなかった、もしくは悪魔憑きといわれた人たちも自分に悪魔が憑いていると強く信じていて、治療のときに催眠のようなものにかかって自分は治った(悪魔が追い払われた)と思い込んで実際治療の効果があったりしたのですよね。科学主義を経て現代になって病気を生物学的に研究するようになってよかったと本当に思います。今回の講義でヒステリーの症状としてカタレプシーが紹介されましたが、その写真図表を見て驚きました。特にスライドの左の方の写真に驚きました。あれは、体が硬直した後に椅子に乗せたのですよね。どういう仕組みで硬直するのか気になりました。というかなぜ体が固まるのでしょうか?
「エクソシスト」はホラー映画の展開点となった作品ですね。現代のホラーに多大な影響を与えています。催眠にかかって治ったと思ったけれど、それは錯覚だった・・・というのではなく、むしろ近年の治療では催眠や悪魔祓いに類する方法が見直されているところもあります。なぜ体が固まるのか?これは謎ですね。しかし、暗示にかかると身体が超人的な力を発揮することはよくあるのです。これについては次回の話で。 3点差し上げます。
今回の講義ではもの憑きが精神病に変わる流れを学ぶことができてよかったです。狐憑病説のスライドに、この病を狐憑きと信じるのはおおむね婦女子や少年たちであり、ゆえにこの病は大抵婦女子や少年たちに存在するとありますが、どういうことなのでしょうか?なぜ、婦女子や少年たちがそれ以外の人たちより「狐憑き」を信じているのでしょうか?昔は、日本の人々は村などの狭いコミュニティで暮らしていて、例えば何か不幸があった人が村にいたら、村の女性たちや少年たちが「狐憑きだ」と噂話をして盛り上がっていて、ほかの人たちより狐憑きを信じていたというようなことがあるからなのでしょうか。また、私は昔の日本の村や集落にはそういう陰湿な一面があると思っていますがこれは偏見ですか?
コメントありがとうございます。
それは、当時、女性や子供の知的判断能力が低いと考えられていたという意味です。ベルツは判断力が低いので迷信にとらわれやすいと考えていたということですね。実際にそういうことはないとは思うのですが。4点差し上げます。
動物憑依や脳病、透視など現代聞いたらそんなわけないと思いますが、当時の人には存在を疑うような人はいましたか?みんながみんな純粋に信じていたのか不思議に思いました。精神病院法を制定されてとき、精神障害者にとってよくするために制定されたはずなのに、当人の周囲の視点に変えるとかえって迷惑になっていて、何が正しいのかとても難しい問題だなと遺憾しました。
みんながみんな信じていたのではないと思いますが、かなり多くの人が信じていたようですね。当時の説話には、村に巨大な化け物が出て、みんながおののいたが、正体はタヌキの悪戯だったということになりみんな安心した。というのがあります。ここでは、正体が「タヌキ」であったことで納得されていて、科学的な解明は何もなされていないというところが面白いですね。
逆に、現代は何でも科学的に説明されると納得してしまうというのも、変ではないですか?
4点差し上げます。
質問です。精神病と精神遅滞はいつ分けられたのでしょうか。クレペリンが精神病の分類の中で精神遅滞を分けたので、そこで初めて区別されたのかと考えていましたが、少し前にダウン医師が知的障害児のための施設を開設していたので気になりました。知的障害の生物学的原因を発見するのは1900年代以降だと思うのですが、それ以前は複数人の精神病患者を観察した結果ふんわりと違いを見分けられたという感じなのでしょうか。
明確にいつからかとは言えませんが、1900年頃にビネー(ヒステリーの催眠療法のシャルコーの弟子)が知能検査を作ったあたりで、標準的な知能、それから遅れた知能という定義ができたのだろうと思います。「遅滞」という言葉には、発達が遅れているというニュアンスがありますが、これはビネーの影響がありそうですね。5点差し上げます。
今回の講義で私は、呉秀三の精神病を患った人のための法整備、待遇などの考え方の輸入、さまざまな学んだことを使い良い環境を作っていった行動力がとてもすごいと感じました。結果は予算などで環境整備が間に合わないところもあったとありました。しかし、個人的にはまず表立って劣悪な環境をなくすという考え方を取り入れてしまうというのは、そこからの環境を整備するきっかけを作ったと思いました。
質問
神社で眷属とされている狐も人に憑くとされていましたか。それともそこらへんの狐が憑くという認識だったのでしょうか。
お金持ちの家に狐が憑いているとして排除され、没落していった。そのようにありましたが、避けられるのは一家が途絶えるまでですか、それともある程度貧乏になったらまた仲間として受け入れられていたのでしょうか。
呉秀三は確かに偉大な人物だと思います。
憑依するのは「そこら辺の狐」ではなく、霊力を持った魔獣です。いつまで忌避されるかは難しい問題ですが、それは共同体の人々が忘れてしまうまでですね。「我が家は憑きもの筋だ」と名乗るわけではなく、周囲のもたちが「あの家は憑きもの筋だ」と噂するという形で憑きもの筋は実体化するので、誰も噂しなくなれば消えるということですね。5点差し上げます。
今回の講義で、私はゲシュタルト心理学について今までの講義で学んだヴントの要素還元主義やfolk phychorogyの批判としての分野、ゲシュタルト心理学の基盤とは何かを学ぶことができました。特に全体論、能動性について今まで意識してこなかった自分の行動や考え方にもゲシュタルト心理学を元に考えられる法則などが当てはめられているということを知りました。個人的にはゲシュタルト心理学の考え方は現代でひとつの学問として残っていても良いと感じるくらい意識に対する認識として理解しやすいと思います。これらの考え方が現代の学問の中にも散りばめられるような形で残っているのにも納得が行きます。
質問: ヴントはキリスト教の許される範囲での心理学として、要素還元主義などの意識に関する研究を行っていて、それら以外の無意識の分野などを民族(文化)心理学として後世に任せたと言うことですが、もしヴントがキリスト教に忠実ではなかったり、これらの研究にキリスト教の影響がなかった場合、心理学の無意識に対する研究はより早く発展していたのでしょうか?それともそれらの研究の進歩は変わらなかったのでしょうか。
ゲシュタルト心理学が衰退したのは、おそらく、個別の事例は示したが理論を示し得なかったことにあるのではないかと思います。「なんとかの法則」はいっぱいありましたが、それらを統一的に説明できる枠組みは示されませんでした。これを引き継ぐのが、生態心理学のギブソン(いずれやります)ではないかと考えています。
歴史に「たら、れば」は禁物と言われますが、あえて推測すれば、ヴントは要素還元主義に立っていたのでこれと相性のよい、大脳の研究に向かったのではないかと思います。つまり、ヒトをモノとして扱う研究に向かったということですね。これはキリスト教的にはアウトです。そしてもし大脳の研究に向かったとしたら、無意識ではなくむしろ意識に着目したのではないかと推察します。というのは、大脳の活動を我々は意識できません。すなわち大脳の活動は無意識裏に進んでいます。このような無意識的な大脳活動から、意識がどのように生まれるのかに関心が持たれたのではないかと。これは現在の脳研究と同じですね。
6点差し上げます。
今回の授業では、ゲシュタルト心理学の考え方とヴントの要素還元主義との対比を理解することができました。時系列をきちんと把握していなかったので、ヴントは先駆けのようなイメージだっただけに、登場が意外と遅いんだなという印象でした。ゲシュタルト心理学は、直感的でより身近に感じられる分野に感じられて分かりやすかったので、全体論が要素還元主義と対立の関係ではなく、どちらの考え方も取り入れた折衷案のような考えも出せそうだなと思ったのですが、その純粋な研究者はあまりいないという話を聞いて残念でした。
質問)今回学んだ能動性というものとスキーマの存在がかなり近しいものに感じたのですが、関連性や何か明確な違いなどはありますか?
おそらく物理学の発展によるものと思われますが、魂(soul)の知的活動部分(知覚や問題解決)だけを取り出した「精神」(mind)というものを仮構し、刺激の物理的強度の変化と心理的強度や、問題解決の複雑さと解決までの時間の関数関係を探る研究が出てきました。ヴント以前のこの領域は、精神物理学と呼ばれます。代表的な研究者としてグスタフ・フェヒナーが挙げられますが、以前の授業でも申し上げたように、フェヒナーは魂や死後の世界の存在を信じていました。この流れからヴントが心理学を立ち上げるのですね。時代的には19世紀中盤から末の自然科学隆盛期です。
全体論と要素還元主義をどう折衷できるのか知りたいですね。「足して2で割る」という解決は、対立する立場があるとしばしばとられる方途ですが、個人的には一時凌ぎにすぎません。ある視点では全体論が妥当に見え、別の見方をすれば要素還元主義が正しいような、両者を弁証法的に止揚した第三の道が出てくることが期待されます。
スキーマという用語は何人かが使用としていますが、バートレットやピアジェの概念であれば能動性が含まれた概念といえますね。ピアジェの理論では「シェマ」と呼ばれますが、スキーマをフランス語で言っただけです。彼の有名な考え方に、シェマへの同化やシェマの調整がありますが、これは能動性が含まれた考えではないかと思います。バートレットの概念は認知心理学の流れの中で、知識の構造という静的なイメージを持たされてしまいましたが、バートレットはゲシュタルト心理学の影響を受けているので、元来彼の思想には能動性が含まれています。
6点差し上げます。
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コンピュータの発展によって便利になり、人間の発展は停滞したかと思いきや、新たにそこから学びにもつながる(認知革命)ということで、人間の発展(進化)は貪欲ですごいなと思いました。古典的条件づけとオペラント条件づけについて理解が曖昧なままでしたが、今回の授業で詳しく丁寧に教えていただき、何を「学習」しているのか、しっかりと理解することができました。先生方が授業に出ててくるような人と関わりがある(孫弟子)と聞いて、すごい先生に教えてもらっているなと思うと同時に、世代が思っていたよりも近くて、心理学は短い期間でものすごい発展をしたんだなと改めて実感しました。
コンピュータは生活を便利にする道具として今日しばしば語られますが、認知革命でもたらされたのは、「人間をコンピュータのようなものと考えると、人間のやっていることは情報処理(プログラムに従ったデータの加工)であり、認知や行動は処理の出力とみなすることができる」というたとえ(コンピュータアナロジー)です。このたとえが革命的なのは、人間が心の中でしていることがプログラムとして表現できること、実験や観察によってこのプログラムをより適切なものに書き換えていけること(より心の仕組みを正確に理解することになること)が得られたことにあります。心を表現する言葉が得られたということですね。
二つの条件づけの区別と適切な理解は、ついでに話した余興的なもので、心理学史的にはさらにこの二つが起源を異にする(パブロフとソーンダイク)ことを銘記してもらえると嬉しいです。
学問というのは伝統芸能ではないので、師匠をいずれは超えていかないとならず、仰ぎ見ているだけではかえって師匠不幸というものです。師匠が偉くても弟子はそうでもないという実例は数えきれないほどあるので、自分が学んでいることが学問的に価値あることかを皆さんには判断していただきたいと思います。盲信はいかんよ。
4点差し上げます。
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今回の授業では、ゲシュタルト心理学がギブソンによって行動主義との弁証法的に生態心理学として復活したとわかりました。その大きな要素は知覚を要素に分けて考えるのではなく、光を普遍的にピックアップすることで全体と捉え(能動性?)変わらないもののまとまりを不変項とすること、それらが各個人の能動性を持って確立していることにあると考えました。行動主義やヴントから続く要素還元主義の考え方と知覚と身体の関係性などからも行動主義と現象学のふたつの正しいと考えられる部分から構成されてることがわかりました。個人的にはゲシュタルト心理学の様々な考え方に納得していたためこのような形で新しい学問や科学の発展に関わっていると分かりとても嬉しい気持ちです。行動主義と現象学の発足の年代の差があったとは思いますがもう少し早く2つの理論の考え方を織り交ぜて考える学問が出てくることは不可能だったのかと感じると共に学問として成立するまでにどのようなプロセスを踏んできたのか気になりました。
質問:生態心理学の考え方がとても自然科学的なものなのに対しゲシュタルト心理学、現象学の考え方や法則を多く用いているように見えたのですが、ギブソンの考え方としては行動主義の理論は多くが間違っていると考えていたのでしょうか?
包囲光配列の不変な部分を構造(パターン)として検知することが知覚であると考えるのが生態心理学です。ゲシュタルト心理学の全体性が、光のパターン(不変項)として環境に実在するとした点で、ゲシュタルトは主観ではなく実在するものと捉え直されました。この不変項は、動物が能動的に動くことによって検出されます。またその動物がどういう身体構造なのかによって検出される不変項は異なります。要素還元主義は取りません。行動主義と共通するところは、ゲシュタルト(不変項)が主観的産物であることを否定し、実在するという立場をとったところにあります。行動主義も、意識内容という主観ではなく、行動という実在するものを対象にすべきだと主張しましたね。
ギブソンに先駆けて、行動主義と現象学を弁証法的に止揚しようとした人として、モーリス・メルロ=ポンティを挙げられるかもしれません。現象学者と呼ばれていますが、身体の役割に注目し、しかも生理学的・解剖学的身体ではなく、能動的に動き回る身体の重要性を主張したところなどギブソンそのものです。しかし彼は、光の構造の中に対象を特定する情報(不変項)が実在するというところまでは行きませんでした。
ギブソンの考え方は、行動主義のような客観主義でなく(だから知覚体験は認める)、かつ現象学のような主観主義(環境および不変項が実在すること、すなわち単なる主観的体験ではないことを認める)でもありません。行動主義が間違いであるとギブソンが言うとしたら、まず動物の能動性を考慮していないこと、そして知覚体験といういわゆる主観的な意識経験を認めないことを挙げると思われます。
7点差し上げます。
ギブソンによる現象学と行動主義のジンテーゼである生態心理学が、個人的に腑に落ちる考え方でした。
質問)ギブソンは元々生態心理学的な考えを持っていたのですか?それとも、ワトソンやヴェルトハイマーなどの考えからインスピレーションを受けてのものなのですか?
パイロットの適性検査と訓練プログラムの開発という、実世界での人間の知覚と行動を扱わざるを得ないところから、おのずと生態学的発想を有するに至ったのだと思われます。詳しいことはGibsonの伝記(たとえば「伝記ジェ-ムズ・ギブソン: 知覚理論の革命」とか)が何冊か出版されているのでそれを読んでいただくか、河野哲也さんや染谷昌義さんといった哲学者が論考を著しているので、そちらを参考にされるとよいかと思います。
4点差し上げます。
今回の授業でギブソンの動きに関する考え方などが、戦争により、パイロットが必要とされる時代背景と結びついて出てきたと学びました。ギブソンの考えた空軍パイロットの訓練プログラムや動きながら物事を認知していくという考え方は、現在でも自動車などの免許を取得する時に行う運転シュミレーションにも生きてきているのかなと考えました。
おっしゃる通り、フライトシュミレーターは包囲光配列の流動に基づいて作られていますし、自動車運転についても同様です。戦争は不幸な事態ですが、現実的な問題を解決する必要、しかもそれが死活問題である状況ですので、学問は発展しやすいかもしれない。
5点差し上げます。
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空書は手で書いて覚えたなごりですが、現代は何でもスマホで漢字を調べて覚えるとなると、現代の空書はスマホで文字を打つような仕草になるのでしょうか。それとも文字を打つ仕草は文字自体を書いているわけではないので空書は成立しないのでしょうか。
スマホ以前にワープロというものが普及し、この道具の導入がどういう影響を与えるかが議論されたことがあります。しかし、たいした結論は得られていなかったと思います。初等教育で「書いて覚える」と教育が続く限り、あなたの前提「空書は手で書いて覚えたなごり」からすると、空書は現在と同様に残る可能性があります。ちなみに空書を最初に世に送り出したのはフランス人(正確には、フランス人の妻を持つ日本人男性が紹介した)で、日本人学生が一斉に空書を始めるところを目撃してたいへん驚いたのだそうです。ということは、フランスには空書はないようです。
話を戻します。仮に筆記による教育が希薄になり、打鍵という形での書字教育になった場合、あなたの前提「空書は手で書いて覚えたなごり」からすると、空書はなくなるという結論が導かれます。聞くまでもなく、そういう結論が出るように、あなたは前提を置いてしまっています。それでもこの問いが有効であるようにするのであれば、「フランス人も単語を書いて覚えているのではないか」と疑い、「同様の書字教育をしているのにどうして日本人だけに空書が生じるのか」と、「空書は手で書いて覚えたなごり」という前提を疑うようにするとよいのではないかと思います。問いの立て方を工夫するとよいと思います。
4点差し上げます。
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特定の人間=真の値(平均値)+誤差である。裁判では、特定の人間(被疑者の自白、証人の証言など)を相手にするが、そのときその人間が平均値に当てはまる人間か当てはまらない例外かどうか断定できない。判断材料としてその人の言ったことの経験則をみるというが、これはあまり当てにならないと私も思う。特に臨場感は出そうと思えば誰でも出せると思う。その人が表現力や想像力が豊かだったら臨場感を出すことができるだろうし、刑事ドラマやミステリー小説などをよく読む人も、臨場感を出すことができるかもしれない。私は最近ケイゾクというドラマを一気見したので、そのドラマの中に出てきた犯行の描写を詳細に説明したり臨場感を出したりできるかもしれない。自分が罪を犯していないのにそのドラマで得た知識を使って自白するというのは自分の首を絞めている行為だが、何日間も終わるかどうかわからない取り調べで精神的に追い詰められたら後のことを考えずにそのように自白するかもしれないと思った。
授業の内容を理解していることを、自分の経験を引用することによって、的確に示していると思いました。実感ができて何よりです。
最初の三行はのちの議論の前提として提示したのかと思いますが、もしそうであれば、議論の前提にしていることがわかるように書き方を工夫した方がよさそうです。また、その後の議論は経験則が確率的言明であることによって、特定の人間が経験則に合致する一般的な人間なのか、例外的な人間なのかが決定できないという不都合が生じることを言いたいのだと思いますが、そうなると前提とすべきは「特定の人間=真の値(平均値)+誤差」でいいでしょうか。ここから、「経験則が確率的言明である」ことが見てとれますか。
5点差し上げます。
今回の採点対象となる投稿は締め切りました。
今回の授業でコールバーグ理論をギリガンが新たな視点から批判しそこから生まれた「正義の論理」「ケアの倫理」という考え方が、ケアや女性についてなどの議論を活発にしていったという流れとそれぞれの理論を理解することができました。
質問
ギリガンへの批判に「発達」というパラダイムにしばられていて、結局倫理にをつ優劣けることになるというのがありましたが、なぜそのパラダイムにとらわれると倫理に優劣をつけるということになるのですか?
身体的な発達においても、個体のの上よくどのような形に発展していくのかは環境との関係によって左右されます。時間の経過とともに絶対にこうなるということは言えません。敏感な特性が、芸術に恵まれた環境では創造力として開花するかもしれませんが、恵まれない環境では不安の強さや傷つきやすさとして発現するかもしれません。
後に出てくるものが、それより前のものよりも優れている、優れている方向に変化していくのが当たり前、という思い込みが「発達」「進化」という考え方には色濃いですが、かならずしもそうとは言えません。環境が異なれば、能力や考え方にも差異が生まれますが、それらの優劣を言うことはできません。生存する条件が違うから、考え方が異なっているだけかもしれません。
ましてや道徳観や知性といった多要因が影響することについては、文化環境によって左右される部分が大きく、西欧的社会において適合的な考え方が、他の社会、女性社会において適合的であるとは言い切れません。研究者の多くが、自身が西欧男性社会中心の価値観のバイアスに縛られていることを自覚できず、西欧男性社会に適合的な価値観を「完成形」で、それ以外の価値観を「未熟」「野蛮」とみなすのではなく、多様な発展がありうることを許容する必要があるのかもしれません。
重要な質問ですね、6点差し上げます。
エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』について。現代にも権力からの解放と自分らしく生きる自由は存在していると思いますが、ファシズムにはあまり発展していないように感じます。この理由について先生のご意見を伺いたいです。それと簡単な話ですが、私は大学生になってからこれまでのような学校のシステムから解放され、結果として自由を重荷に感じることがありました。なので、フロムの考えは個人規模でも確かに存在している心理だと実感しました。自由から逃走しないために自立した大学生活を送りたいと思います。
この辺りは認識の差なのかもしれませんが、現在ファシズムに発展していないかと言えば、むしろドイツにおけるネオ・ナチの台頭、日本を含む各国の右傾化と防衛費の拡大など、第2次世界大戦前と似た動きが急速に広がっています。それが旧来のファシズムと同じと言えるかはわかりません。現代的な特徴としては、ポピュリズムと呼ばれる大衆迎合的な考え方の広がりがあるでしょう。これは、ひろゆき氏に代表されるように、エリート官僚主義を大衆目線から批判しつつ人気を得ていくというようなものです。ドナルド・トランプもそうですね。このような動きが起こる背景には、フロムが指摘したような不安があるのかも知れません。自由からの逃走が起こるかどうかを、あなた個人の問題として考えるのではなく、なにがそのような逃走を起来させるのか考えるのも良いかと思います。が、そうなると心理学と社会学の結び目の学問になりますね。よい問題意識かと思います6点。
戦時中で日本を訪れることができないとはいえ、ルース・ベネディクトが日本を一度も訪れずに日本文化を文献や聞き取りだけで分析して本を出したことがすごいなと思った。しかもそれがしっかりと当時の日本の文化の分析をできていたというからすごい。日本人は「恥」を重んじる、西洋人は「罪」を重んじるというが、現代はどうだろうか。西洋人はわからないが、日本人の「恥」を重んじるというのはあまり変わっていないと思う。昔と大きく変わったことといえばデジタルが普及したことだと思うが、SNSの炎上とかも恥を重んじすぎて起こることなのかなと思った。
「罪」というのが基準やルールに対する違反の感覚だとすると、「恥」は相手からどうみられているのかに関係すると言われています。これまでの社会が確固としてルールに規定されていたとしたら、近年はルールよりもウケるかいなかが重視される(ポピュリズム)ようになっています。これによって、世界中の誰もが「いいね」を気にするようになり、「恥」の意識のほうが強まっている可能性はあります。よい着眼点。6点差し上げます。
今回の採点対象となる投稿は締め切りました。
第14回(7/29)授業の投稿期限は8/1(土)の午前9時、第15回(7/31)授業の期限は8/3(月)の午前9時になります。
色々な学会やらローカルな学派がどんどん生まれていっているということに驚きました。臨床心理学概論では、技法的折衷や理論的統合を行うと学んだので、学派とかがまとめられてなくても心理療法では特に問題はなさそうでよかったですが、論文などの審査でローカルすぎる学派の方に審査されると落とされるというのはなんだか理不尽だなと思いました。心理学に限ったことではないですが、社会的な要因で素晴らしい発見も無かったことにされてしまうことは今回の話を聞いていて本当にありそうだなと思いました。
心理療法って、要するに治りゃいいという考えに基づいている、と言ったら言い過ぎですか? 村澤先生。臨床心理学は、正統医学と民間療法の区別がない状態。「技法的折衷」「理論的統合」...、いい言葉だww やっぱ心理学って統合されてないんだよね、前パラダイム状態。
査読まつわる問題は仕方がないと言えば仕方がない。私の友人に山本くんという人がいるのだけれど、「新しいテーマは古い方法で。古いテーマは新しい方法で」というのが査読を通る基本だと院生時代に主張し、これを「山本の法則」と呼んでいた。テーマと方法の両方が古いと「いまさら」と言われ、両方新しいと「なんだかわからない」と言われる。まあ、そんなもんなんだけど、どこかに理解者はいる(作れる)。日本がダメなら世界に出るしかないっす。
村澤先生の意見が聞きたい。
ゲシュタルト心理学について。私は、森先生の授業であったように、電光掲示板の流れるLEDを文字として捉えることができる、という例えでようやくゲシュタルト心理学を理解しました。どこかに応用される心理学、というより人間の知覚を解明するための心理学なのだと割り切って学んでいました。しかしやはり何かに応用したい、と考えました。15回目で話があがったように、AIとゲシュタルト心理学の結びつきにはとても興味を惹かれました。私はゲシュタルト知覚は人間にしか出来ないと考えています。AIはコネクショニズムで一つ一つの要素を拾って答えを算出し、その過程を学習している。一方で人間は要素を処理する複雑な過程を持ちながらも過程で終わらせ答えだけを見る。この過程が人間とAIの違いだと思います。そこで、人間にしかゲシュタルト知覚ができないのなら、それを応用してアンチAIフォントを設計できる可能性があるのではないかと考えました。私は実際に、ゴシック体のフォント「あいうえお」に人間には正しく認識できる程度に落書きを足して、ChatGPTに読み込ませました。AIの結果は「あいちゃん」だったので、人間のゲシュタルト知覚は十分に使えるのではないかと考えました。
(森先生レポート)
おもしろいことしましたね。知識を獲得するだけでなく、使ってみる、試してみることは大切ですね。そこを大いに評価したいと思います。
35点差し上げます。