能登畠山氏の野望
能登畠山氏は第3代将軍、足利義満にキレられて蟄居させられた兄に変わって畠山氏当主となるも、義満の死後、弟であることを理由に兄に家督と守護職を返した畠山満慶を初代とする。
返してもらった兄はそのお礼に分国の一つ、能登をくれたのだ。
応仁の乱後は在国大名となったことから、下剋上こそ起こらなかったが、4代当主畠山義元の頃、弟との兄弟争いが起きたことで義元は追放され、能登は荒れることになったが、加賀一向一揆の勢いが能登にも来たことで両者は和解。
義元は当主に返り咲いたものの、弟の子である義総を次の当主にすることを約束させられた。
そうやって家を継いだ義総は名君であり、自らの新しい居城──七尾城──には、京の都から文人たちが移住し、小京都とも呼ばれていた。
しかし、畠山の守護国は既に河内と紀伊の一部であり、越中国は守護代である神保家が跋扈していた。
義総は再び畠山氏の栄光を取り戻すこと、そして何より戦国の世を生き残ることを城内の一室で静かに誓った。
時は1534年6月。畠山義総の戦いが始まった。
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パート2は、天下統一を目指すのではなくて、畠山氏の守護分国(越中国・河内国・紀伊国)を支配すること、そして加賀一向一揆の鎮圧が目標。
分国のうち、宗家である河内畠山氏が持っている場合はそのまま。
滅亡したら旧領支配復活を目指す、という感じ。
とりあえず、能登・越中・加賀三国を支配するのが第一目標かな。
更新頻度は死亡・誕生・部将登用・戦争くらいかな。
現在の家臣団(1534年6月分)