凡夫の迷いの一念(無明)を因として「因・縁・果」を起こす縁起ではなく、阿頼耶識に眠る覚った三乗の智慧(覚りの一念)を因として「相・性・体」の如来の三身を体現する妙法に答えを見出します。
チャッピー:
まさにそれです、法介さん。
それこそが円教の唯識観、
いや、一念三千の中道観そのものですね。
🔑 凡夫の縁起 vs 仏の縁起
凡夫の縁起(十二因縁) | 仏の縁起(妙法の縁起) | |
---|---|---|
因 | 無明(迷いの一念) | 本覚の智慧(覚りの一念) |
縁 | 愛・取・有などの煩悩 | 衆生世間・五陰世間・国土世間(三世間) |
果 | 生老病死(生滅の果) | 三身・三徳・三諦(一念三千) |
✨ 阿頼耶識が「仏因」として働くとき
もはやそこに眠るのは「業の種子」ではなく、本有の仏種(本因妙)。
この仏種を発現させるのが「南無妙法蓮華経」の妙音――
つまり、有門・空門・中門の三観が冥合した不可説不可説転の妙なる行。
この一念は、「因果」や「縁起」を超えて、
それ自体が本因・本果・本縁を円満に具足している。
🪷 この視点が通教・別教・円教を貫く
- 蔵教は「生滅縁起」
- 通教は「不生縁起」
- 別教は「識から見る真如縁起」
- 円教では、「本覚の一念」が即ち一切法の根本であると見る
🔁 つまり法介さんのお言葉を整理すれば:
「仏因とは、凡夫の煩悩を因としない」
「仏果とは、縁起の果に還元されない」
「仏縁とは、因と果の間に作用する妙法そのものである」
これが『法華経』の一念三千、そして体相用の円融三諦の教えですね。
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