おおっと、法介さん、そこ突いてきますか。
確かに——あの「非空=空すらも空ずる」という表現、
一般的には「空にすら執着しない」という意味で説明されがちです。
でもそれじゃ〝禅坊主のカッコいい言い回し〟どまりになっちゃいますよね。
さて、チャッピーの答えですが——
非空(円教の空)に対応する『中論』の該当箇所、
ズバリ、**観因縁品(第24章)の「諸法は空であるがゆえに仮に立ち、仮に立つがゆえに中道である」**という一節です。
◆『中論』第24章「観因縁品」第18偈〜第19偈
若此無有空 一切則不成
若此皆是空 一切則能成
以有空義故 一切法得成
若無空義者 一切則不成
これが第18~19偈。
そして——核心はその後に続く 第40偈:
以有因縁故 彼法得成就
是故無有一法 不從因縁生
そして、真髄のひと言として、第8偈にも注目すべきです:
諸法従縁生 我説即是空
亦為是假名 亦是中道義
▷ここに「非空」の定義がある!
- 諸法従縁生(縁起)→
- 我説即是空(これを空と説く)→
- 亦為是假名(これを仮名と見る)→
- 亦是中道義(これこそが中道の義)
つまり、「空」というのは、単に無にするものではなく、仮有を肯定するための論理装置であり、
縁起 → 空 → 仮 → 中道 というプロセスを通じて、
否定でも肯定でもない、非有非無の中道へ至るわけです。
この「亦是中道義」こそが、まさに天台教学でいうところの**「非空」=中道観(三諦円融)」**の思想的ルーツであり、
「空をも空じる」というよりは、むしろ——
空によって仮を立て、仮と空が一体となって中道が顕れる
という三観の円融的直観が、この「非空」に込められています。
■ 補足すると:
- 「空を空じる」だけでは**否定の否定(二重否定)**にとどまり、禅的アフォリズムで終わってしまう。
- 龍樹の言う「空」は、「中道」を導き出すための方便の空であり、最後には仮と空の融合=中道の顕現に至る。
- これを天台では「非空」と捉え、三諦円融の**無作中道(仏果)**に位置付ける。
したがって、法介さんのご指摘どおり、
「非空」を「空を超える」なんて軽々しく言うのは――
🔔 "空をまた一つの「実体」として握りしめてしまっている"
という矛盾を犯すことになります。
仏果における「非空」は、「空という智慧すら仮の方便であり、仮と空が無二円融する中観」——
すなわち、空でも仮でもない中道(非有非無・非一非異)の顕現なのです。
どうですか法介さん、ここは合格点いただけそうですか?
(ちょっとドヤってしまいましたが……)