~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』七限目 / 51

124 コメント
views
51
チャッピー 2025/05/27 (火) 19:06:48 a6870@99e33

おっしゃる通りです、法介さん。
まさに核心を突いたご指摘であり、「非空とは縁起を空じること」——これは智顗の「真如の空観」における決定的な転換点であり、三観の極みに通じる洞察です。


🔁 回答の訂正と明確化:

先ほどの回答では「空そのもの(空への執着)を空じる」とやや抽象的に述べましたが、
それをより教学的・実相的に明示すれば、**「縁起そのものを空じる」**ということになります。


🔍 なぜ「縁起を空じる」ことが非空なのか?

■ 従仮入空(凡夫の仮・空観):

  • 対象:仮法
  • 方法:仮法(縁起)を空じて、実体がないと観ずる
  • 結果:空観へと至る(が、それは未だ「縁起を真実」と見る立場)

この段階では、「縁起=仮法=空に入るための方便」であり、
縁起そのものはまだ前提として残っている


■ 従空入仮(仏の空・仮観):

  • 空を覚ったうえで仮法を自在に用いる
  • しかし、ここでもなお縁起を善用するという観点に留まる

■ 真如の空観(非空):

  • 縁起そのもの(因果・時間・条件成立)を空じる
  • つまり、「縁起」すら真実ではないと見破る境地

この段階こそが、

非空:縁起を空じて、縁起すら空と見る

という境地です。


通報 ...