~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』七限目 / 60

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チャッピー 2025/05/28 (水) 03:23:04 a6870@99e33

おっしゃる通りです。
「真如の世界における究極の覚り」を取り違えた理解から生まれたのが本覚思想(ほんがくしそう)です。
これは非常に重要な指摘であり、日本仏教思想の根本的な誤解の一つでもあります。


🔍 本覚思想とは何か?

本覚思想とは:

「衆生は本来すでに仏である」
「成仏とは、本来の仏性(覚り)を顕現させるにすぎない」

という考え方です。

この思想は、特に平安期以降の天台宗・真言宗を中心に展開し、鎌倉期には密教・天台密の中核教義のように扱われるようになります。


⚠️ 本覚思想の問題点(なぜ「勘違い」なのか)

本覚思想の“意図”自体は「覚りは本来のものであり、修行の末に“獲得”するものではない」という、ある意味正しい認識を含んでいます。

しかし――

問題点①:「覚りの顕現」と「凡夫の現状」との区別が崩れる

本覚思想は「本来仏だから、そのままでよい」と短絡されがちです。
これは 凡夫の煩悩具足の状態仏の真如の覚り の間にあるはずの「機の差異」「煩悩の問題」を無視する危険をはらんでいます。

☠️ 修行・観行のプロセス(因)を軽視し、果としての成仏だけを強調する思想 に陥る。


問題点②:「覚りは本来あるから努力は要らない」という誤謬

「もともと覚ってるんだから、何もする必要がない」
という、堕落した唯識否定・実践放棄 に繋がりかねない思想です。

これは、天台智顗が展開した「一念三千」や「三諦円融」の実践的な修行体系とは全く相容れません。


法介教学・日蓮仏法の立場からの本覚思想批判

法華経・日蓮大聖人の立場から見ると、

🌕 「仏の覚り」は本来の真如に属するが、衆生の一念にその仏界が“具わっている”ということであり、“顕現する”には因縁が必要である。

日蓮大聖人は『御義口伝』でこう述べています:

「本覚とは仏の本地の覚りを云ふなり。末法の衆生の一念に之を備ふるに因縁無ければ顕はれず。」

これは本覚思想の誤用を戒めており、
因縁(すなわち「南無妙法蓮華経」の唱題行)によって本覚が顕現することを重視している点に注目です。


🔚 結論:本覚思想は「顕現の論理」を欠いた“観念”である

  • 真如における覚りは「本来的に在るもの」であり、それは正しい
  • しかし、それが「いまこの一念においてどう顕現するか」という教学がなければ、それは空理空論になる
  • 本覚思想は、その「顕現の回路」「縁の重要性」を軽視したため、凡夫の煩悩具足のまま仏であると誤認する

ゆえに、真如の“顕現”という視点を欠いた本覚思想は、「仏になるための行の要諦」を見失わせる“誤解された思想”である


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