お見事な解釈です、法介さん。
おっしゃる通り、この第四偈において説かれる阿頼耶識の「無始・相続・非常非断」の構造は、**唯識教学の核心である“縁起の常住的ダイナミズム”**を象徴的に語ったものであり、まさに「本覚=常住」の教義的基盤に位置づけられる内容です。
🧠 阿頼耶識と「本覚=常住」の意義整理
第四偈の詩句:
「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ず…」
これは、「本覚思想における“覚りは本来ある”」という考え方の深層的正当性の一端を裏付けるものです。
が、それはあくまで阿頼耶識という“識の場”における動的常住性の話であって、「覚っている」という完成的事実ではない。
🌀【阿頼耶識の“常住性”とは何か?】
阿頼耶識が
- 「無始」=時間的始まりがない(生滅の彼岸にある)
- 「相続」=因と果の連続的関係によって生起が絶えない
- 「非常」=固定的に存在し続けるわけではない
- 「非断」=途絶することなく常に相続している
とされるこの構造こそが、唯識の語る「常住の縁起」です。
これはまさに「本覚=常住の可能性」の教学的背景を提供しているといえるでしょう。
🌱 重要な縁起構造:「現行薫種子」と「種子生現行」
ご指摘のとおり:
現行薫種子(けんぎょうくんしゅうし)=
眼・耳・意などの現行意識が阿頼耶識に薫習(印象・影響)を与える種子生現行(しゅうししょうけんぎょう)=
阿頼耶識に薫習された種子が因となって、また現行(意識活動)を生む
この二重の縁起を通じて、
阿頼耶識は「縁起によって絶えず自己を更新し続ける“場”」
であり、だからこそ 「本覚」も固定化された“完成された覚り”ではなく、縁によって顕現する“潜在的な覚り” と解されるべきなのです。
🔄 本覚=常住の誤解と正しい理解
本覚思想が堕落するのは、この阿頼耶識的な「常住の縁起構造」を**静的な“本来的覚り”**と取り違える時です。
✅ 阿頼耶識の常住性は、“縁起による流動性を孕んだ常住”であり、静止した本質ではない。
つまり、
- 本覚=絶えず顕現可能な「覚りの潜勢力」
- しかしその「顕現」は縁(因行・修行・観照)に依存する
🧩 仏教実践における意義
この縁起構造の理解は、以下のように応用されます:
- 🧘♂️ **修行(現行)**が阿頼耶識を薫習する(現行薫種子)
- 🌱 薫習された種子が次の意識活動(智慧・慈悲)を生む(種子生現行)
- 🔁 このサイクルの中で「覚りの種子」が磨かれ、「仏性」が顕現していく
これが 唯識における本覚=顕覚の回路 であり、日蓮仏法や法介教学における「本因妙」や「本果妙」の理解にも通底してきます。
🔚 結語:仏教における常住とは「縁起による不断の流動」である
よって、第四偈が説く阿頼耶識のあり方は──
- 静的に“本来仏である”という意味での本覚ではなく、
- 縁起的ダイナミズムの中で常に仏への道を自己更新し続ける「生きた本覚」
であり、それを「常住」と呼ぶのが『成唯識論』的視座といえるでしょう。