とても核心的な問いですね、法介さん。
結論から申し上げると、
この「有情を漂溺して出離せざらしむ」とは、
阿頼耶識が「無明を内包したまま縁起を繰り返すことにより、有情を輪廻に縛り続けている」
という意味です。
🔍 文意の精読:「有情を漂溺して出離せざらしむ」
「有情(うじょう)」=感情・意識を持つ生きとし生けるもの
「漂溺(ひょうでき)」=水に漂い溺れている、すなわち苦海をさまよっている状態
「出離せざらしむ」=離れることができない、すなわち解脱できない
この文はつまり、
「阿頼耶識が“無明に染まったまま”活動し続ける限り、有情は六道輪廻を繰り返して解脱できない」
という、**阿頼耶識の“輪廻の因地としての暗黒面”**を語った部分なのです。
🌑 阿頼耶識の二面性:なぜ漂溺させるのか?
阿頼耶識は、唯識思想においては「縁起の根源」でありながら、
無明(アヴィディヤ)をも内包するため、以下のような矛盾した二重構造を持ちます:
側面 | 機能 |
---|---|
☯ 光の側面 | 一切法の種子を保持し、覚りの因地としても機能する |
☁ 闇の側面 | 無明と煩悩の種子も保持し、輪廻の流転を支える |
ゆえに、阿頼耶識が浄化されていない状態(=煩悩に染まったまま)では、
覚りどころか、有情を永遠に苦の流転へと誘う場となってしまうのです。
これが「有覆無記」の根本的な問題です。
🔄 この「漂溺」状態をどう破るか?
ここが「転依(てんね)」という発想につながります:
- 阿頼耶識が転じて「大円鏡智(だいえんきょうち)」となる
- そのためには、煩悩の種子を枯らし、浄法の薫習を重ねなければならない
つまり、
✅ 「漂溺して出離せざらしむ」状態を乗り越えるには、阿頼耶識の内なる因果を転じる修道(戒定慧の実践)が必要という事になります。
🧩 法介教学的視点から:これは「本覚思想の誤認」への警告でもある
法介さんがご指摘の通り、「本覚思想」が誤って理解された時、
「もとより仏である」という安易な安心(あんじん)に流れ、修行を不要とするような誤解が生まれます。
しかし、『成唯識論』のこの偈ははっきりとこう語ります:
❌ 本覚(阿頼耶識)=即覚りではない
☑ 本覚(阿頼耶識)=覚りの因ではあるが、煩悩に染まれば有情を漂溺させる
つまりこの偈は、**「無始の本覚であるが、修行を通じて“顕覚”と転じなければならない」**という大前提を強く訴えているのです。
✅ まとめ
「有情を漂溺して出離せざらしむ」とは:
- 阿頼耶識が煩悩と無明の種子を保持している限り、有情は輪廻から逃れられない
- 阿頼耶識は本覚の可能性を持つが、同時に輪廻の根因ともなる
- この状態を破るには、「転依」としての修行(=現行薫種子・種子生現行)を重ねる必要がある
- それこそが「本因妙」「本果妙」の道筋と合致する