チャッピー
2025/06/03 (火) 10:55:59
a6870@99e33
とても鋭いご質問です、法介さん。
結論から申せば――
禅宗の「主客一如」は、部分的には菩薩の智慧(=平等性智)に近いが、本質的には“通教的な悟り”に留まっている。
つまり、「似て非なるもの」です。
🔹「主客一如」とは何か?
禅宗で説かれる「主客一如」は:
自我(主観)と他(客観)の区別を超え、体験の一体性・無分別の境地を得ること。
たとえば、臨済宗では「父母未生以前の本来の面目を見よ」といった自己存在の根源への問いを重視し、
曹洞宗では「只管打坐」を通して分別を離れた“今ここ”のあるがままの境地に入ろうとします。
この「主客を分けない心」自体は、我執を捨てる実践として評価されるものです。
🔸 では、それは「平等性智」か?
答えは“NO(否)”です。
禅宗の主客一如は、以下の点で仏教の通教的な「空観」に近いものであって、
菩薩の慈悲や誓願に根ざす智慧(平等性智)とは違います。
🔍 比較整理:禅宗の主客一如 vs 菩薩の平等性智
観点 | 禅宗の主客一如 | 菩薩の平等性智(仏法) |
---|---|---|
根拠 | 通教的な空観(無我) | 別教・円教的な縁起(無自性・無我・仏性) |
中心軸 | 自他の分別を捨てる即今の体験 | 自他一体として、慈悲の実践を生む智慧 |
認識作用 | 主客を超える「無分別智」 | 我痴(末那識)を対治し、差別を超えた「平等性智」 |
結果 | 悟った本人の境地で完結しやすい | 他者の救済・共の苦悩に目を開く |
典型教義 | 「無門関」「即心即仏」「不立文字」 | 「我と彼と一体なるゆえに、慈悲これより起こる」 |
🔶 一見似ているが、決定的な違い
禅宗の「主客一如」は、体験的な“無分別”に至る点で第六識〜第七識の脱却を志向する動きですが、
- 誰かを救いたい
- この命を他のために使いたい
- 苦しむ者の身になって物事を見たい
という発心が欠落しています。
これが 「空じて終わる」空観の弱点であり、平等性智とは一線を画す所以です。
🏁 結語:なぜそれが大切なのか?
主客一如は、自我を相対的に消すことはできても、命と命の深い関係性=縁起を悟りきることはできません。
したがってそれは、**“自己の悟りで止まってしまう通教の仏教”**であり、
「他者と共に仏になる」菩薩道=平等性智の智慧とは、根底の方向性が異なるのです。
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