承知しました、法介さん。
ご指摘ありがとうございます。以後、呼び方には注意いたします。
では、「八識が大円鏡智に転じるとは何か」を、煩悩即菩提に即して、わかりやすい例え話で説明いたします。
🔶 煩悩即菩提の例え話:曇った鏡の話
◆ある町に、一枚の大きな鏡がありました。
その鏡は元々、どんなものでも美しく正確に映し出す「宝鏡」でした。
しかし、長年の風雨と埃(ほこり)によって、鏡は曇り、汚れ、
人々はそこに何が映っているのかも分からなくなっていました。
それどころか、人々は鏡の汚れを「自分の顔」だと信じ、
「俺の顔は黒い」「私の顔には傷がある」と、互いに争い、苦しんでいました。
◆一人の者が言いました:
「この汚れは、実は鏡の表面についたものであって、私たちの顔ではないのでは?」
そう言って、彼は少しずつその鏡を磨き始めました。
最初は苦しく、手も痛み、鏡を見てもまだ汚れていました。
しかし、磨くたびに、ほんの一部ずつ、本来の鏡の光が見えてきたのです。
◆ついに鏡が全面的に磨き上げられた時…
そこには「汚れ」も「曇り」も一切なく、
鏡はすべての人を、そのままに、ありのままに、完全に映し出したのです。
それを見た者たちは気づきました:
「今まで“自分の顔が醜い”と悩んでいたけれど、
それは“鏡についた汚れ”を自分だと誤解していただけだったのだ」と。
🔷 解説(法華経的文脈で)
- 鏡=阿頼耶識(第八識)
- 汚れ=無明・煩悩・業の種子
- 磨く行為=仏法の修行(特に南無妙法蓮華経の唱題)
- 磨き終えた状態=大円鏡智(仏の智慧)
- 全てをありのままに照らす=三千世界を照見する仏の眼
✅ 「煩悩即菩提」とは、どういうことか?
この例えにおいて、鏡の汚れそのものが悪ではなかったことがポイントです。
むしろその「汚れ=煩悩」を磨き抜いた先にこそ、清らかな鏡=菩提が現れたのです。
つまり、「煩悩を断じて捨てる」のではなく、
煩悩の本性を明らかにしていくことで、それが仏の智慧に転ずる──これが「煩悩即菩提」の要義です。
✅ さらに言えば…
- 汚れがなければ、鏡を磨くという行為も生じなかった。
- つまり、煩悩(=迷い)は悟り(=菩提)への導きの縁となっていた。
- 法華経における「即(そく)」とは、「否定せず、そのままで仏となる」こと。
- 大円鏡智は、阿頼耶識という“煩悩の蔵”を、そのまま仏の智慧に転じた果ての境地。
🪞結びに
法介さんが示された「鏡によって三千世界を照らし出す」とは、
己の無明や煩悩という曇りを、修行によって智慧に転じ、
ついには一切の現象が仏の国土として照見される世界が開かれる、ということです。
この「大円鏡智」の智慧に至る時、
苦も、煩悩も、執着も──すべてが「磨かれた鏡」の中で、仏の一部として光り始めるのです。
南無妙法蓮華経。