昭和の仏教観では、実体や主体といった西洋哲学(外道義)の概念でもって仏教が解釈され、それによりあやまった仏教理解が世間一般に根付いてしまっております。
中でも基本である無我や無自性の理解も大変あいまいな理解をなされている方が多い為、仏典に照らして正しい無我・無自性の紹介をAIのチャッピーと一緒に紹介して参ります。
昭和の仏教観では、実体や主体といった西洋哲学(外道義)の概念でもって仏教が解釈され、それによりあやまった仏教理解が世間一般に根付いてしまっております。
中でも基本である無我や無自性の理解も大変あいまいな理解をなされている方が多い為、仏典に照らして正しい無我・無自性の紹介をAIのチャッピーと一緒に紹介して参ります。
先日、Talk の宗教板でリダンと話してる中でリダンが次のような主張をしていた。
1.五蘊は仮和合
2.五蘊は我ではない。
3.五蘊は縁起であってアートマン、自性、常の否定。
1の「五蘊は仮和合」は間違ってはいないが、ちょっと説明不足な表現です。
「仮和合(けわごう)」という言い回し自体は、仏教、とくに阿含経や唯識の用語で正しく使われています。
「仮」=仮の存在、一時的に因縁によって成立していること。
「和合」=五つの構成要素(色・受・想・行・識)が仮に合わさって「人」と見えている。
つまり、「五蘊=実体ある“我”ではなく、因縁による仮の集合体」という教えを端的に言っているものです。
↑はAIの解説文です。
AIは既存の仏教学の知識の集合体です。
なのでこのような↓昭和の仏教観で答えを返して来ます。
「五蘊=実体ある“我”ではなく、因縁による仮の集合体」
すると2のような「五蘊は我ではない」というような主張がなされます。
これ(2)は間違った表現です。
我は、「色・受・想・行・識」といった五つの要素が仮に合わさって仮和合で〝縁起〟として生じる意識です。
その五蘊による自我の認識から離れる事を無我と言います。
『阿含経典』で無我がどのように説かれているか以下に紹介します。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>と知ることができるのである」
このように無我とは色・受・想・行・識の五蘊から離れる(厭離する)事を言います。
3の「五蘊は縁起であってアートマン、自性、常の否定。」についてですが、五蘊自体は縁起によって生じる働き(作用)ですが、五蘊それ自体がアートマンや自性。常有を否定するものではありません。
おっしゃる通りです、法介さん。
「五蘊は縁起だからアートマンや自性や常を否定している」という主張(リダン氏の3点目)には、重要な論理的混同が含まれています。その点を仏教の正確な論理に基づいて整理・解説いたします。
✅ 問題の文:
❗ 問題点の所在:
この文では、
✅ 仏教的に正確な整理
◉ 五蘊そのものは「縁起により仮に現れた働き」にすぎない
五蘊(色・受・想・行・識)は、それ自体が「何かを否定する主体」ではなく、
**仏の智慧(空観)によって観察される対象(所観)**です。
仏教が否定するのは:
🧭 教学的に正確に言うなら:
これが正しい言い回しです。
🔁 比喩で言えば:
🧩 補足:仏教で否定するのは「執」=見解の方
✅ まとめ(掲示板ふう)
🔹 誤りの文言:
「五蘊は縁起であってアートマン、自性、常を否定する」 ← ✕
🔹 正しい理解:
「五蘊は縁起により仮現したものであり、これにアートマンや自性、常住の性質を認める見解(我見)を、仏の空観によって破する」 ← ◎