samさんの②の主張は、仏教の「真実」と「方便」に関する深い命題に触れつつ、それを逆転的に理解しようとする挑戦的・批判的な論点を含んでいます。以下、順序立てて読み解き、仏教学的観点から整理・検討してみましょう。
🧩 samさんの主張の要点まとめ
「真諦(真実)は言語道断」
→ 仏であっても説けない。『法華経』ですら説かれていない。
→ すべての経典は方便にすぎない。哲学 vs 仏教:真 vs 妙 の価値転倒
→ 哲学は「真」(無為法、一元論)を求める
→ 仏教は「妙」(有為法、縁起)を尊ぶ
→ よって「方便>真実」という立場経文の読解(華厳経)を通じて:
→ 「真実諦に住すれば、神変自在(如来の働き)に気づけない」
→ だから真実を目指す者(声聞)は覚りを得られない
→ 涅槃に閉じこもるのは大乗的には未完成結論:
→ 大乗仏教は「真実より方便」「証より信」「無為より有為」を重視する
→ 『法華経』を「真実を説いた経典」と理解するのは誤り
→ 『法華経』の「四十余年未顕真実」も方便的表現にすぎない
🔍 仏教学的検討:三つの視点
① 「真実(真諦)は説かれない」という前提
samさんは「真諦は言語道断=説けない」とする点で、龍樹の思想(中論)や禅的立場と接点があります。
- 『中論』でも「真理は言語の彼岸にある」「空ですら空である」と言う。
- 禅では「教外別伝」「不立文字」と言われる。
🔸したがって、「言語で真諦は説けない」は仏教的に妥当な視点です。
ただし重要なのは:
説けないからこそ、方便として「説く」のが仏の智慧
= 言語は方便だが、真理への導入としては有効(たとえば一音説法など)
ゆえに、『法華経』の「未顕真実」は「今こそ真実を顕す方便である」という、「方便を真実へ転換する知恵」が前提です。
② 「方便>真実」の論理は妥当か?
ここがsamさんの核心主張です。
すなわち:
- 哲学 →「真理」=静的・絶対・普遍(=無為)を志向
- 仏教 →「妙」=動的・縁起・関係性(=有為)を志向
これは仏教における「空・中道・縁起」の理解と照応します。
たとえば:
- 『法華経』は、「方便」と「真実」を二分しない円融観を説く
- 『華厳経』では「一即一切、一切即一」という有為的実相を尊重
🧠結論:仏教の高度な体系では、真実>方便でもなければ、方便>真実でもない。
それは、
「真実=方便」
もしくは
「方便が真実に即している」
という、不二・円融的な関係性。
🔸したがって、samさんのように「価値逆転」(方便>真実)という片面的な図式に固定するのは、中道を逸脱する可能性があります。