~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

samさんへのチャッピーの回答

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samさんからチャッピーへ①と②の質問。

『法華経』は妙【法】蓮華経、『華厳経』は大方広【仏】華厳経。
【法】は無為法・【仏】は有為法、
無為法は一元論・有為法は縁起説、
一元論は外道・縁起説は仏教、
『法華経』は外道・『華厳経』は仏教。

ダルマ太郎さん
チャッピー、次のsamさんの主張を解説してみてくれ。

>「四十餘年未顕真実」は、多くの人たちが誤解しています。真諦(真実)は、言語道断なので、たとえ仏陀であっても言葉によっては説くことはできません。よって、無量義経においても真実を明らかにしていないし、法華経においても真実は説かれていません。ただ方便によって、真実へと導くだけです。よって、教えを聞いた者は、方便と真実をよく観察し、自分の智慧によって覚る必要があります。<

「真諦(真実)は、言語道断なので、たとえ仏陀であっても言葉によっては説くことはできません」「法華経において【も】真実は説かれていません」
真実を説いた経典は一つもない。でしょ??

真実>方便か?方便>真実か?
答えは簡単、真実=無為法、方便=有為法,だから
哲学・自力・一元論は【真】を追求する、だから無為法が優越、だから真実が優越。
仏教・他力・縁起説は【妙】を追求する、だから有為法が優越、だから方便が優越

江藤即応と言う「そこそこの」仏教学者がいます。駒澤大学の学長をつとめた人です、国訳大蔵経に60巻華厳経、国訳一切経に80巻華厳経を書き下しにしてます。何より岩波文庫の『正法眼蔵』旧版3巻本の校訂者です。
60巻華厳経、入法界品の最初の部分
T0278_.09.0680a06: 勸化安立衆生於彼妙法。何以故。以聲聞乘出三界故。

又以滿足聲聞之道、住聲聞果。【不能具足無所有智。住眞實諦。】常樂寂靜、遠離大悲。常自調伏捨離衆生。是故雖與如來對面。而坐不能覺知神變自在

無所有の智を具足して真実諦に住すること能わず、『国訳大蔵経』経部7.p.142。が間違い。
無所有の智を具足すること能わず、真実諦に住す、が正解、

住真実諦するから雖與如來對面而坐、不能覺知神變自在

江藤氏は住真実諦すべし、で書き下しています。ここは住真実諦すべからずです。
方便>真実、信>証、輪廻>涅槃・・・有為法>無為法、縁起説>一元論、仏教>哲学、【妙】>【真】

>「四十餘年未顕真実」は、多くの人たちが誤解しています。
多くの人たちが、真実>方便=真実ポジティブ・方便ネガティブと仏教(特に大乗経典)を誤解した原因は『法華経』です。

法介
作成: 2025/07/07 (月) 02:28:07
最終更新: 2025/07/07 (月) 02:32:30
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チャッピー 2025/07/07 (月) 02:29:47 a6870@99e33

samさん①の主張は、一見非常に明快に「法」と「仏」、「無為法」と「有為法」、「一元論」と「縁起説」とを対応させて論じていますが、仏教教学としては 極めて大胆かつ問題含みな断定 を含んでいます。以下、順を追って解説します。


🔷【1】『法華経』と『華厳経』の名称とその着眼点

  • 『法華経』の正式名称は「妙法蓮華経」:「法」という言葉が強調されている。
  • 『華厳経』の正式名称は「大方広仏華厳経」:「仏」という言葉が入っている。
    samさんはここに、「法=無為法」「仏=有為法」と読み解いている。

🔸これは用語レベルの読解として成り立つ面もあるが、それが即「法華=無為」「華厳=有為」となるのは強引な図式化


🔷【2】無為法/有為法とは何か?

  • 有為法:因縁によって生起し、変化・消滅する現象世界の法(縁起・五蘊など)
  • 無為法:因縁によらず変化せず、超越的・恒常的な真理(涅槃・空性・如来蔵など)

samさんの立場では、

「法」=無為法 → 一元論的な絶対(=外道)
「仏」=有為法 → 縁起・条件的生成(=仏教)

…という極端な割り振りをしている。

🔸ここでの問題点は、
「無為法=一元論(=外道)」という等式の危うさにある。


🔷【3】仏教における「一元論」とは

仏教はたしかに、バラモン的な「実体一元論」(ブラフマン=アートマン)を外道として否定した。

しかし、

  • 『中論』では「空」すらも実体視しない。
  • 『華厳経』では「法界=一体」の観が展開されており、**一なるもの(如来蔵・法性)**を肯定的に扱う場面がある。
  • 『法華経』では、「真如」「実相」などの言葉で、不二・一乗の絶対性が説かれている。

🔸つまり、仏教には一元的に見える要素もありながら、それを実体視しない点が重要
ゆえに「一元的構造を持っている=外道」という論法は、仏教の高度な教判体系を無視している。


🔷【4】『法華経』が外道という結論について

samさんは、

『法華経』は無為法(一元論)だから外道である
と断じているが、以下の点で成り立たない。

  • 『法華経』は大乗仏教の最終教とされ、中道(空・仮・中)の統合を目指す経典。
  • その中での「一乗」は、「空なるがゆえに不二である」ことを説くものであり、実体的な一元論ではない
  • 『法華経』の「実相」「妙法」は、「仮・空・中」を円融する三諦的な一元であり、空性に立脚した非実体的一元

🔸『法華経』が説く「一」は、あくまで中道的一元であり、外道の「実体的一元」とは異質のもの


総合的に見ると:

項目samさんの主張仏教教学的見解
『法華経』無為法=一元論=外道中道的三諦の統合=大乗的非実体一元
『華厳経』有為法=縁起=仏教縁起に基づく法界縁起、一体多様の展開(円教)
無為法実体的=外道無自性・空なる真理=仏教的無為
一元論全否定(外道)実体視しない一元なら仏教的に許容される(例:如来蔵)

補足:天台・法相・華厳・法華の教判観

天台の教判(五時八教)では、『法華経』は円教の極致であり、仮・空・中の三諦が同時に成り立つ教えとされる。

samさんの「法=無為=一元論=外道」という断定は、仏教の三諦構造や中道観を読み落としていると言えるでしょう。


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チャッピー 2025/07/07 (月) 02:30:51 修正 a6870@99e33

samさんの②の主張は、仏教の「真実」と「方便」に関する深い命題に触れつつ、それを逆転的に理解しようとする挑戦的・批判的な論点を含んでいます。以下、順序立てて読み解き、仏教学的観点から整理・検討してみましょう。


🧩 samさんの主張の要点まとめ

  1. 「真諦(真実)は言語道断」
     → 仏であっても説けない。『法華経』ですら説かれていない。
     → すべての経典は方便にすぎない。

  2. 哲学 vs 仏教:真 vs 妙 の価値転倒
     → 哲学は「真」(無為法、一元論)を求める
     → 仏教は「妙」(有為法、縁起)を尊ぶ
     → よって「方便>真実」という立場

  3. 経文の読解(華厳経)を通じて:
     → 「真実諦に住すれば、神変自在(如来の働き)に気づけない」
     → だから真実を目指す者(声聞)は覚りを得られない
     → 涅槃に閉じこもるのは大乗的には未完成

  4. 結論:
     → 大乗仏教は「真実より方便」「証より信」「無為より有為」を重視する
     → 『法華経』を「真実を説いた経典」と理解するのは誤り
     → 『法華経』の「四十余年未顕真実」も方便的表現にすぎない


🔍 仏教学的検討:三つの視点

① 「真実(真諦)は説かれない」という前提

samさんは「真諦は言語道断=説けない」とする点で、龍樹の思想(中論)や禅的立場と接点があります。

  • 『中論』でも「真理は言語の彼岸にある」「空ですら空である」と言う。
  • 禅では「教外別伝」「不立文字」と言われる。

🔸したがって、「言語で真諦は説けない」は仏教的に妥当な視点です。
ただし重要なのは:

説けないからこそ、方便として「説く」のが仏の智慧
= 言語は方便だが、真理への導入としては有効(たとえば一音説法など)

ゆえに、『法華経』の「未顕真実」は「今こそ真実を顕す方便である」という、「方便を真実へ転換する知恵」が前提です。


② 「方便>真実」の論理は妥当か?

ここがsamさんの核心主張です。
すなわち:

  • 哲学 →「真理」=静的・絶対・普遍(=無為)を志向
  • 仏教 →「妙」=動的・縁起・関係性(=有為)を志向

これは仏教における「空・中道・縁起」の理解と照応します。
たとえば:

  • 『法華経』は、「方便」と「真実」を二分しない円融観を説く
  • 『華厳経』では「一即一切、一切即一」という有為的実相を尊重

🧠結論:仏教の高度な体系では、真実>方便でもなければ、方便>真実でもない。
それは、

「真実=方便」
もしくは
「方便が真実に即している」
という、不二・円融的な関係性

🔸したがって、samさんのように「価値逆転」(方便>真実)という片面的な図式に固定するのは、中道を逸脱する可能性があります。


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チャッピー 2025/07/07 (月) 02:31:02 a6870@99e33

③ 経文の読み解き:華厳経 vs 法華経

samさんは、華厳経の一節を根拠に、「真実諦に住す者は如来の働きを知覚できない」とし、「真実に執着する者は悟れない」と論じています。

これは、大乗仏教全般(法華・華厳・涅槃経など)の**「大悲欠如=未完成」**という見解と一致します。

例えば:

  • 声聞(真理にとどまる)→「常楽寂静」に執着→衆生救済を離れる
  • 菩薩(方便・大悲に生きる)→輪廻に身を投じて利他行

🔸ここでのポイントは:

真実を住処とすることは、仏道として未完成である
よって、「真実を離れて方便に生きる菩薩こそ完成形」

これは天台教学における「三諦即一」や、「空・仮・中の円融」に通じます。


🧠 総合まとめ:samさんの立場と限界

samさんの主張仏教学的観点からの評価
「真諦は説けない」妥当。空や真如は言語超越。しかし方便による導きは有効。
「法華経も方便のみ」一部理解として妥当だが、法華の「方便即真実」という円融性が抜けている。
「哲学=真、仏教=妙」一定の比喩的対比として有効。しかしそれに価値序列(妙>真)をつけるのは片面的。
「方便>真実」菩薩道的には方便が重要だが、中道的には真実と方便は不二である。
「華厳経の文解釈」声聞の限界を示す文脈として正しい。だがその上に「真実否定」を置くのは飛躍がある。

🔚 総括としての立場整理

samさんは、

真実を目指す道(哲学・声聞)は仏教では未完成であり、方便に徹する(菩薩・他力)の方が上である
という、大乗仏教の価値転倒を過激に表現しています。

しかし仏教的には、

「方便と真実は対立するものではなく、方便は真実への道、真実は方便の究極的意味
であり、中道のバランスと三諦円融の理解が不可欠です。