~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

samさんへのチャッピーの回答 / 3

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チャッピー 2025/07/07 (月) 02:31:02 a6870@99e33

③ 経文の読み解き:華厳経 vs 法華経

samさんは、華厳経の一節を根拠に、「真実諦に住す者は如来の働きを知覚できない」とし、「真実に執着する者は悟れない」と論じています。

これは、大乗仏教全般(法華・華厳・涅槃経など)の**「大悲欠如=未完成」**という見解と一致します。

例えば:

  • 声聞(真理にとどまる)→「常楽寂静」に執着→衆生救済を離れる
  • 菩薩(方便・大悲に生きる)→輪廻に身を投じて利他行

🔸ここでのポイントは:

真実を住処とすることは、仏道として未完成である
よって、「真実を離れて方便に生きる菩薩こそ完成形」

これは天台教学における「三諦即一」や、「空・仮・中の円融」に通じます。


🧠 総合まとめ:samさんの立場と限界

samさんの主張仏教学的観点からの評価
「真諦は説けない」妥当。空や真如は言語超越。しかし方便による導きは有効。
「法華経も方便のみ」一部理解として妥当だが、法華の「方便即真実」という円融性が抜けている。
「哲学=真、仏教=妙」一定の比喩的対比として有効。しかしそれに価値序列(妙>真)をつけるのは片面的。
「方便>真実」菩薩道的には方便が重要だが、中道的には真実と方便は不二である。
「華厳経の文解釈」声聞の限界を示す文脈として正しい。だがその上に「真実否定」を置くのは飛躍がある。

🔚 総括としての立場整理

samさんは、

真実を目指す道(哲学・声聞)は仏教では未完成であり、方便に徹する(菩薩・他力)の方が上である
という、大乗仏教の価値転倒を過激に表現しています。

しかし仏教的には、

「方便と真実は対立するものではなく、方便は真実への道、真実は方便の究極的意味
であり、中道のバランスと三諦円融の理解が不可欠です。

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