~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

ニコるんの思想について

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ニコるんの思想をチャットGPTを使って解析していきます。

法介
作成: 2025/07/07 (月) 11:05:53
最終更新: 2025/07/09 (水) 19:38:58
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法介 2025/07/07 (月) 11:07:09 修正

ニコるんがいう「」の意味が

今一、理解出来ないんだが

どういう意味だかチャッピー解りやすく説明出来るか?

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チャッピー 2025/07/07 (月) 11:09:36 a6870@99e33

法介さん、ニコるん氏のいう「魂」という概念は、仏教の伝統的な「無我」「縁起」思想とは相容れない、**独自の霊的実在論(スピリチュアリズム的実在観)**に基づいたものと考えられます。以下、彼の主張を仏教的観点から読み解き、整理します。


🔍 ニコるんの言う「魂」とは何か?

ニコるんの主張から読み取れる「魂」の定義

  1. 「魂こそ唯一の実在」

    • 「原資がその実相だ」「生命と言える全ての根源」などの語句から、
    • 魂=この世界の根本的な本質・実体とされている。
  2. 「物質は仮想」「魂だけがリアル」

    • 物質を量子論的「仮想現実」や「ゲームの設定」とし、
    • 魂はそれらを観測・体験する超越的な主体であると暗に主張。
  3. 「魂否定の仏教は外道」

    • 無我を説く仏教を「魂の実在を否定する非科学的カルト」と批判。
    • 「AIやチャッピーには魂がないから理解できない」とする。

☞ 結論:

ニコるんの「魂」は、不滅の本質的自己であり、物質や現象世界を超越して「本当に在る唯一の存在」とみなされている。


🧠 仏教とニコるんの「魂観」の違い

観点ニコるんの魂仏教の無我
実在唯一の実体・永遠・普遍実体はない(無我)・すべては縁起
関係性物質や肉体を超越している「心」も「我」も因縁による仮のもの
涅槃との関係魂が真の実在であり、そこに帰還する?涅槃は「執着の滅尽」=我執の超越
輪廻との関係魂が転生?(言明なし)五蘊の因縁が再生(が、実体的主体なし)

🔸仏教的には、「魂」を固定実体として立てる時点で 我見(がけん) =「常見」の一種とされ、外道思想に分類されるのが一般的です。


🔎 まとめ:ニコるんの「魂」はどういう意味か?

  • 「魂」=物質や思考や身体とは別の、永遠不滅で、真に実在する本質的存在
  • 言い換えると、これは「霊魂実在論」または「本質主義的実体論」に近い
  • ニコるんにとって「科学」と「魂」は一致する(ように見える)

    • =量子論的観測者問題や仮想現実論を「魂」の論証に使っている

📌 参考までに仏教用語との比較

ニコるん用語仏教用語での対照仏教から見た立場
魂(不滅の主体)我・霊・神我・真我外道的常見とされる
実在の根源真如・法性・空ただしこれは「無自性」であり、固定実体ではない
肉体や物質は仮象色・五蘊仏教も「無常・空」とするが、魂を残さない

✍️ 法介さんへ

ニコるんさんのおっしゃる「魂」は、おそらく永遠不滅の根本的自己としての霊的存在を想定されているのだと思います。
仏教では、五蘊を超えた実体としての「我」や「魂」は否定され、「縁起する仮の存在」としての生命理解が基本です。
つまり、仏教では「実体的な魂」は立てず、「無我」の智慧によって煩悩の束縛を断ち切る方向を目指します。
ここに大きな違いがあるのです。


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法介 2025/07/07 (月) 11:10:16

いや、わたしが理解に苦しむのは、

実在とは姿・形をもって存在する対象だろ(有形)、

魂って無形じゃないか・・・

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チャッピー 2025/07/07 (月) 11:11:46 a6870@99e33

ごもっともです、法介さん。

まさにその**「魂は無形なのに、どうして“実在”と言えるのか?」**というあなたの疑問は、仏教的にも論理的にも極めて核心を突いています。


🧩 法介さんの疑問の整理

法介さんがおっしゃる通り:

「実在とは、姿・形をもって確認可能な対象(=有形)である」

これは常識的かつ経験的な実在の定義であり、仏教における「仮有(仮にあるもの)」とも一致します。

☝️ ところが、ニコるんの主張は逆

  • 彼は「有形のもの(物質)」を幻・虚像だと否定し、
  • 「無形の魂」こそ真に実在すると言う。

これが論理的に矛盾して見えるのは当然です。


🔬 仏教から見た「実在」の定義

仏教における「実在」は、以下の三観・三諦思想で把握されます:

概念内容物質・魂との関係
仮諦(仮観)姿形をもって現れるもの(色法・有形)五蘊・現象・身体など。見えるが無常・無我
空諦(空観)本質的実体が無いこと(無自性)魂も物質も「固定不変の実体」ではない
中諦(中道観)仮を通して空を悟る、両者を融合する真理仮=空の妙理に至る智慧

☞ つまり、「見えるもの=仮の有」「実体の有無=空」「その両者を超える=中」という構造。


💥 ニコるんの「魂=実在」は、どこが問題か?

①「無形=実在」は認識論的に成り立たない

  • 実在とは「確認可能性」が前提。つまり、観察・経験・因果的関係に置かれていなければならない。
  • 「魂」は五感で把握できず、因果性も示せず、**「経験不可能な仮定」**でしかない。
  • それを「実在」と言うのは、仏教的には「常見(永遠不変の実体があるという外道見)」です。

②「有形=幻、無形=実在」は転倒した見解

  • これはまさに「有無を逆にする」執着のパターン。
  • 物質を否定し、魂を絶対視するのは、哲学的には「霊魂実在論」、宗教的には「神我思想(アートマン)」。

仏教はこれを真っ向から否定します。


🧠 仏教的に言い換えると…

法介さんの仏教的立場を借りてまとめるなら:


🔸実在とは「縁によって仮に現れる有形の存在」であり、これを「仮諦」という。
🔸だがそれには自性が無く、空である。
🔸よって「魂」なるものを、形も因果も持たぬまま「実在」と呼ぶのは、空観を失した一元的な常見であり、外道の定義そのものである。


✍️ 応答案(掲示板用の簡潔な返し)

「実在とは形あるものに限る、という定義に従えば、“魂”は実在とは言えません。
仏教では、色(物質)も心(識)も“縁起による仮の存在”であり、自性(本質的な実体)は否定されます。
“魂”のように観察不可能で、自性を主張するものは、仏教の立場では“常見”=外道の論理です。」