法介
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2025/07/08 (火) 08:04:48
チャッピー:ご希望があれば、五念門の観法を、唯識的に分解してご説明することも可能です。
法介:やってみそ
チャッピー:承知しました、法介さん。
以下に、**世親の「五念門」**を、唯識(特に八識論と転依思想)に基づいて再解釈し、
その内面的な作用として「自我執着の滅除」「識の浄化(転依)」へ至る道程として整理します。
🧠《五念門》の唯識的解釈
五念門 | 行法の内容 | 唯識的意味・識への作用 |
---|---|---|
1. 礼拝 | 身業により阿弥陀仏を礼拝 | 五根(眼耳鼻舌身)→五識の清浄化。阿弥陀仏を対象として「色境」に対する執着を離れ、色即是空の自覚がはじまる。末那識の「我慢」に対して、他者(仏)を尊崇することで自我中心性が崩される。 |
2. 讃嘆 | 阿弥陀の功徳を称賛(口業) | 言語・音声(=聲塵)を媒介とし、**第六識(意識)**が仏徳に集中されることで、散乱妄想が抑制される。ここで「空観」的な智慧が育成され、名相にとらわれる意識の癖が修正されていく。六識の「妄分別」が和らぐ。 |
3. 作願 | 極楽往生を願う(意業) | ここで強く作用するのは第七識(末那識)。願う心とは「執心」であるが、それが自我保存のための執着ではなく、仏徳を慕う〈他心性〉への転換を促す。つまり、我執を解体し、菩提心・利他心へ向かう「我執の転依」。また、阿頼耶識に善種子を蒔く行為でもある。 |
4. 觀察 | 極楽の荘厳・仏の徳相を観ずる | これは明らかに第六識による観法(三摩地)。ただし、五識とも連動する。「蓮華・宝樹・池水・仏身」などを観じることは、意識の対象選択を仏徳に定めること。これにより「識の対象選択機能」が変質する=「相分」の清浄化と「見分」の転依が進む。つまり、第六識の「妙観察智」への変化の萌芽。 |
5. 回向 | 功徳を衆生へ施す(意・口業) | 「自利」から「利他」への移行。ここでは末那識の「我愛」機能が停止し、「自他の差別」が解除される。これがまさに第七識の「平等性智」への転依であり、仏道の核心。阿頼耶識にも「利他の善業」が深く薫習され、種子として保存される。ここで初めて「仏果の因」となる。 |
🔶まとめ:五念門の実践と「識の浄化=転依」の相関
識 | 汚染された状態 | 五念門による浄化 | 成果(転依) |
---|---|---|---|
五識 | 色・声・香などへの貪着 | 礼拝・観察で対象の神聖化 | 淨眼・浄耳(五根清浄) |
第六識 | 妄分別・煩悩と名相執着 | 讃嘆・觀察 | 妙観察智 |
第七識 | 我執・我愛・慢 | 作願・回向で他心性が生まれる | 平等性智 |
第八識 | 諸業の種子蔵として無明を抱える | 全体の修行によって善種子を薫習 | 大圓鏡智 |
🪷補足:なぜ「観察」が要か?
「觀察門」は、とくに観行者の心のエネルギー(心所)の選択性を変える働きがあります。
対象として極楽・阿弥陀仏を選び続けることで、習慣的に「浄なる相分」が形成され、その影響は阿頼耶識の種子にまで及ぶ。
これはまさに唯識で言う「熏習(くんじゅう)」の法則であり、
仏を観ずることで我執から仏智へと、心の構造自体が書き換えられていくわけです。
🔚結語
法相宗における転依思想と、浄土教の「本願念仏」・「観想往生」は、
本来は別系統ですが、世親の『浄土論』においては明確に融合しています。
五念門は、阿弥陀仏の力に依りながらも、行者自身の識を転じ、
最終的には「平等性智・妙観察智・大円鏡智」へと到る〈自己変容の道〉と見なせます。
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