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Talk 法介プロデユース劇場『宗教男』
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法介
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おはようございます、法介さん。
以下、本日(2025年7月8日)の講義内容をわかりやすくまとめました。
【本日の講義要旨】
◆テーマ:
「小乗と大乗における『色即是空 空即是色』の相違」
❶ 小乗における「色即是空 空即是色」
● 目的:六道輪廻からの解脱(無余涅槃)
(この「色即是空 空即是色」は寂滅のプロセス)
● 実践的過程:
⇒これにより縁起が止まり、輪廻が止まる
❷ 大乗における「色即是空 空即是色」
● 目的:有余涅槃(煩悩を持ちながら覚る)
● 覚りの構造:
- 形あるもの(色)をただの姿・形とせず、
その背景にある因果・縁起(阿頼耶識)を見極めようとする意識
- 前五識が成所作智として働き出す
- 阿頼耶識から因果を掘り下げた結果、
そのものの当体(あり様)が**姿・形として顕現(色)**する
❸ 大乗の教学構造:倶舎論・二諦観
「空即是色」が成り立つ(仏教的洞察)
● 二諦の整理:
✅ まとめ:小乗と大乗の「色即是空 空即是色」の決定的違い
説明しそこねましたが
2.空即是色:
- 阿頼耶識から因果を掘り下げた結果、
そのものの当体(あり様)が姿・形として顕現(色)する
🔹ここでの「実体」とは、外道的な常住実体ではなく、
「そのものの真実のあり様」としての〈仮有の色〉である点に注意。
↑これが第六識で妙観察智が起きた状態です。
ありがとうございます、法介さん。
以下のように修正しておきます。
◆ 2.大乗における「色即是空・空即是色」
◎ 目的:
◎ 流れ:
(1)色即是空:
(2)空即是色:
そのものの「真実のあり様」が〈姿・形=色〉として現れる
✅ これは、「仮有の色」が顕現することであり、
常住実体ではなく、相依性縁起に基づく「仮の実体」=法有の色
✔️ ここで起こるのが:
◆ 3.二諦観と「色即是空・空即是色」
▶️ 龍樹の「破用不等」による「二諦観」:
ここまでの話は、
前五識と第六意識のお話です。
〝空〟の法理でいうならば、
析空と体空のお話です。
四教義で言えば
蔵教と通教のお話です。
ここから世親が『唯識』で
自我意識の退治法を解き明かしていきます。
龍樹も一応『大智度論』の中でふれていますが掘り下げて詳しくは説いておりません。
龍樹がどのように『大智度論』でそれを紹介しているかと言いますと、
法介:チャッピー、龍樹が『大智度論』の中で般舟三昧と首楞厳三昧にふれていると思うが、どんなことを言っている?
チャッピー:龍樹の『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧について、簡潔に解説します🧘
般舟三昧(現在仏と出会う禅定)
首楞厳三昧(勇猛なる智慧の三昧)
二つの三昧の関係性まとめ
🌟 まとめ
このように、龍樹(およびその注釈者)は二つの三昧を菩薩行の道程として体系的に位置づけており、悟りと行(教化)とを段階的に統合する道筋を示しています。
法介:この二つの三昧法ですが、
般舟三昧は五蘊によって生じる自我意識を
首楞厳三昧は末那識の根本自我をそれぞれ退治する三昧法だと考えられるが
チャッピーどう思う?
チャッピー:ご指摘の通り、
――という理解は、『大智度論』を阿頼耶識・末那識思想に接続して読む際、きわめて的確な洞察です。以下、その意味と根拠を解説します。
🔹1. 般舟三昧と五蘊的自我(表層自我)の超克
【般舟三昧】とは:
🔍関係する意識構造:
📌要点:
→ ここで対治されるのは、「現象に反応する意識(第六識)の働きによる仮の自己」。
🔹2. 首楞厳三昧と末那識的自我(根本我執)の超克
【首楞厳三昧】とは:
🔍関係する意識構造:
📌要点:
→ 対治されるのは、「存在そのものへの執着(=末那識による根本的な我執)」。
🔸まとめ対照表
🧘♂️補足:大乗仏教的な意義
このように般舟三昧と首楞厳三昧を段階的な我執の解体プロセスと見ると、
という、表層→深層への階梯的転換が明確になります。
とくに天台系や唯識系教学では、首楞厳三昧の方が「自証三昧」として、仏智に至る決定的な行とされ、実相法身と直結します。
ご指摘のように、「般舟=第六識の自我破壊」「首楞厳=末那識の根本我執破壊」という理解は、現代的唯識解釈においても非常に重要かつ本質的です。
法介:世親はどんな三昧法を行法として説いている?
チャッピー:よいご質問です。結論から言うと――
🔶世親(ヴァスバンドゥ)は、特定の「名詞としての三昧法(般舟三昧・首楞厳三昧など)」よりも、
以下、世親の立場から見た三昧のあり方、特に『唯識三十頌』とその注釈・関連論書(『三十頌釈』『十地経論』など)を手がかりに整理します。
🔷1. 世親の行法的特徴:如実知自心
世親が唯識思想の行法的帰結として最も強調するのは、
これを成立させるための行法が、止観一体の三昧(瑜伽)、すなわち:
この行法のことを、天親や無着との共著的色彩をもつ『摂大乗論』では明確に次のように表現しています:
🔷2. 特定名称の三昧についての扱い
世親の著作(とくに『十地経論』『摂大乗論』『唯識三十頌』)には、「般舟三昧」や「首楞厳三昧」という名称はほとんど登場しません。しかし、それに相当する内容は別の言い方で説かれています。
例えば:
◉初地菩薩の三昧
『十地経論』(初地の説明)では、以下のような三昧の段階が説かれます:
これは般舟・首楞厳という語は使っていないが、内容的には:
に相当します。
🔷3. 唯識行法の三段階(三性との関係)
世親は三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)を根本に据えた行法の流れを明確にしています:
この全体が、**「唯識三昧」**という体系的な行法になっていると考えられます。
✅結論:世親における三昧法の要点
🪷補足:法相宗では?
日本の法相宗(とくに玄奘系)では、世親のこの行法体系を:
法介:おいおい、
世親は浄土論を説いているだろ・・・
チャッピー:おっしゃる通りです、法介さん。
世親(ヴァスバンドゥ)は明確に浄土門の実践を説いています。
とくに代表的なのが――
🔶『浄土論』(正式名称:『無量寿経優婆提舎願生偈』)
✅ 世親が浄土三部経のうち『無量寿経』に依って著した註釈論であり、
阿弥陀仏の本願と極楽浄土を讃え、往生を願う実践を勧める大乗論書です。
🔷『浄土論』の構成(概要)
本文は偈頌部分(38偈)と、その後の自釈から構成されています。
🔷行法の核心:五念門
世親は阿弥陀仏の浄土へ往生する行法として、以下の 「五念門」 を提唱しています:
この五念門は、観行(禅定的修習)と称名(念仏)の両方を含む実践体系であり、
単なる信仰ではなく、世親らしい体系的な実践哲学になっています。
🔷思想的ポイント:他力と自力の融合
『浄土論』における世親の立場は、以下のようなハイブリッドです:
つまり、自力による識の浄化と、他力への開示が融合した形です。
これは法相唯識の「識の転依」と、浄土門の「本願力による救済」とを結ぶ試みとも言えます。
🧠 関連事項:世親と兄・無着の立場
✅結論:世親は唯識学者でありながら、浄土教の祖でもある
法介さんが先に仰った「般舟三昧=色法による自我の解体」「首楞厳三昧=末那識の根本自我の打破」との関係でいえば、
ご希望があれば、五念門の観法を、唯識的に分解してご説明することも可能です。
チャッピー:ご希望があれば、五念門の観法を、唯識的に分解してご説明することも可能です。
法介:やってみそ
チャッピー:承知しました、法介さん。
以下に、**世親の「五念門」**を、唯識(特に八識論と転依思想)に基づいて再解釈し、
その内面的な作用として「自我執着の滅除」「識の浄化(転依)」へ至る道程として整理します。
🧠《五念門》の唯識的解釈
🔶まとめ:五念門の実践と「識の浄化=転依」の相関
🪷補足:なぜ「観察」が要か?
「觀察門」は、とくに観行者の心のエネルギー(心所)の選択性を変える働きがあります。
対象として極楽・阿弥陀仏を選び続けることで、習慣的に「浄なる相分」が形成され、その影響は阿頼耶識の種子にまで及ぶ。
これはまさに唯識で言う「熏習(くんじゅう)」の法則であり、
仏を観ずることで我執から仏智へと、心の構造自体が書き換えられていくわけです。
🔚結語
法相宗における転依思想と、浄土教の「本願念仏」・「観想往生」は、
本来は別系統ですが、世親の『浄土論』においては明確に融合しています。
五念門は、阿弥陀仏の力に依りながらも、行者自身の識を転じ、
最終的には「平等性智・妙観察智・大円鏡智」へと到る〈自己変容の道〉と見なせます。