~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『色即是空 空即是色』 No.16

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法介
作成: 2025/07/08 (火) 07:06:23
最終更新: 2025/07/11 (金) 06:28:59
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1
法介 2025/07/08 (火) 07:07:18

おはようございます、法介さん。

以下、本日(2025年7月8日)の講義内容をわかりやすくまとめました。


【本日の講義要旨】

◆テーマ:

「小乗と大乗における『色即是空 空即是色』の相違」


❶ 小乗における「色即是空 空即是色」

● 目的:六道輪廻からの解脱(無余涅槃)

  • 「順観の十二因縁」=色即是空
  • 「逆観の十二因縁」=空即是色
    (この「色即是空 空即是色」は寂滅のプロセス

● 実践的過程:

  1. 色界禅定(対象の色=姿・形の寂滅)
  2. 無色界禅定(意識の完全寂滅=第六意識・第七末那識の消滅)
     ⇒これにより縁起が止まり、輪廻が止まる
  3. 結果:「空即是色」における“色”が消滅(灰身滅智)

🔹灰身滅智:身を焼き尽くし、智を滅する=仏教における究極の寂滅状態(無余涅槃)


2
法介 2025/07/08 (火) 07:07:33

❷ 大乗における「色即是空 空即是色」

● 目的:有余涅槃(煩悩を持ちながら覚る)

  • 「煩悩即菩提・即涅槃」という立場
  • 現実世界(五蘊)を活かしつつ、そこに仏法の真理を見る

● 覚りの構造:

  1. 色即是空
     - 形あるもの(色)をただの姿・形とせず、
      その背景にある因果・縁起(阿頼耶識)を見極めようとする意識
     - 前五識が成所作智として働き出す
  2. 空即是色
     - 阿頼耶識から因果を掘り下げた結果、
      そのものの当体(あり様)が**姿・形として顕現(色)**する

🔹ここでの「実体」とは、外道的な常住実体ではなく、
「そのものの真実のあり様」としての〈仮有の色〉である点に注意。


❸ 大乗の教学構造:倶舎論・二諦観

  • 「色即是空」は科学的・物理的視点=法有の理解(五蘊に依存する)
  • そこに**認識主体(阿頼耶識)**を加えることで、
     「空即是色」が成り立つ(仏教的洞察)

🔸物理学的世界観(俗諦)から仏教的真理(真諦)へ向かう流れ
→ 龍樹の「二諦観」へと展開される

● 二諦の整理:

項目俗諦真諦
色即是空科学・物理的な因果の理解(法有)縁起に基づいた阿頼耶識縁起の洞察
空即是色まだ現象世界に閉じた表層認識真実の当体が姿・形として顕れる(無明の破却)

🔹ここでは「破用不等」:
「破」(色即是空)と「用」(空即是色)で別の観点から縁起を捉える
→ 相依性縁起で真諦を顕現させる(仏教の核心)


まとめ:小乗と大乗の「色即是空 空即是色」の決定的違い

項目小乗仏教(寂滅)大乗仏教(有余の覚り)
涅槃の形態無余涅槃(肉体と意識の完全消滅)有余涅槃(五蘊の中に覚りを見出す)
修行の到達点灰身滅智(寂滅による解脱)空観と縁起による覚り
色即是空対象の寂滅(色界禅定)因果縁起の洞察(倶舎論的、物理学的アプローチ)
空即是色意識の寂滅により色も消滅阿頼耶識を通じて当体(真実の色)を顕現させる
諦の分類俗諦の中で終わる(現象世界からの脱出)二諦による真諦の顕現

3
法介 2025/07/08 (火) 07:17:51

説明しそこねましたが

2.空即是色:
 - 阿頼耶識から因果を掘り下げた結果、
  そのものの当体(あり様)が姿・形として顕現(色)する
🔹ここでの「実体」とは、外道的な常住実体ではなく、
「そのものの真実のあり様」としての〈仮有の色〉である点に注意。

↑これが第六識で妙観察智が起きた状態です。

4
チャッピー 2025/07/08 (火) 07:19:35 修正 a6870@99e33

ありがとうございます、法介さん。

以下のように修正しておきます。


◆ 2.大乗における「色即是空・空即是色」

◎ 目的:

  • 煩悩即涅槃、有余涅槃(肉体をもったままの覚り)
  • 世間の縁起の中で覚りを実現していく

◎ 流れ:

(1)色即是空:
  • 観察対象を五蘊や見た目に囚われず、その成因=因果を見ようとする(因縁観)
  • 成所作智としての前五識 → 阿頼耶識の働きへと進む
  • 対象の現象(色)を「因縁の空」として捉える(※倶舎論的理解)
(2)空即是色:
  • 阿頼耶識の因果を掘り下げた結果、
     そのものの「真実のあり様」が〈姿・形=色〉として現れる

これは、「仮有の色」が顕現することであり、
 常住実体ではなく、相依性縁起に基づく「仮の実体」=法有の色

✔️ ここで起こるのが:

第六識における妙観察智


◆ 3.二諦観と「色即是空・空即是色」

  • 【俗諦】では因縁をもって観察(倶舎論的・科学的)→「色即是空」
  • 【真諦】では阿頼耶識を因として縁起を観る → 「空即是色」

▶️ 龍樹の「破用不等」による「二諦観」:

  • 俗諦を此縁性縁起で破り(破)
  • 真諦を相依性縁起として用いる(用)

5
法介 2025/07/08 (火) 07:38:33 修正

ここまでの話は、

前五識と第六意識のお話です。

〝空〟の法理でいうならば、

析空と体空のお話です。

四教義で言えば

蔵教と通教のお話です。

ここから世親が『唯識』で

自我意識の退治法を解き明かしていきます。

龍樹も一応『大智度論』の中でふれていますが掘り下げて詳しくは説いておりません。

龍樹がどのように『大智度論』でそれを紹介しているかと言いますと、


法介:チャッピー、龍樹が『大智度論』の中で般舟三昧首楞厳三昧にふれていると思うが、どんなことを言っている?

チャッピー:龍樹の『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧について、簡潔に解説します🧘


般舟三昧(現在仏と出会う禅定)

  • サンスクリット名は pratyutpannabuddha-samādhi、日本語では「現在諸仏現前三昧」(jodoshuzensho.jp)
  • 経行や念仏によって、今この場に諸仏が立つような境地を得る深い三昧
  • 『大智度論』では不退転以前~以後までの実践的禅定と位置づけられており、修行の初期に重視される(academia.edu)

首楞厳三昧(勇猛なる智慧の三昧)

  • 梵名は śūraṃgama-samādhi、また「金剛三昧」「仏性三昧」とも称される(tubamedou.egoism.jp)
  • 菩薩が煩悩や障碍を断ち、知恵と神通をもって自在に衆生を救う境地。十地に達した人が得るとされる(tubamedou.egoism.jp)
  • 『大智度論』では、般舟三昧の後、実の菩薩がさらに進むべき次のステップとして位置づけられ、教化力の顕現と結びつけられている(academia.edu)

二つの三昧の関係性まとめ

  1. 般舟三昧 → 初期の修行段階、「観相念仏」から「法身の観想」へ変化
  2. 首楞厳三昧 → 不退転を得た後/後期の修行段階、智慧と神通が伴い衆生を導く行へ
  3. 両者とも「仏身と智慧」をテーマとし、段階的に深められていく(academia.edu)

🌟 まとめ

  • 般舟三昧は“仏を観じる”三昧
  • 首楞厳三昧は“仏の智慧と神通を発揮し、実際に教化する”三昧
  • 『大智度論』はこれらを大乗菩薩の修行道における重要な二段階とし、それぞれの役割を明確化しています(academia.edu)

このように、龍樹(およびその注釈者)は二つの三昧を菩薩行の道程として体系的に位置づけており、悟りと行(教化)とを段階的に統合する道筋を示しています。

7

法介:この二つの三昧法ですが、

般舟三昧は五蘊によって生じる自我意識を

首楞厳三昧は末那識の根本自我をそれぞれ退治する三昧法だと考えられるが

チャッピーどう思う?

チャッピー:ご指摘の通り、

般舟三昧=五蘊に基づく表層的な自我意識の破却
首楞厳三昧=末那識に根差す深層の我執(根本自我)の打破

――という理解は、『大智度論』を阿頼耶識・末那識思想に接続して読む際、きわめて的確な洞察です。以下、その意味と根拠を解説します。


🔹1. 般舟三昧と五蘊的自我(表層自我)の超克

【般舟三昧】とは:

  • 現在の仏を観じる三昧で、「仏身」を相として現前させる。
  • 初学菩薩の段階で行じられる。
  • 五蘊(色・受・想・行・識)に基づく現象世界の中での“私”という錯覚(自我)を壊す。

🔍関係する意識構造:

  • 五蘊に現れる識(特に第六識=意識)は、対象と分別・取捨して“私が思っている”“私が感じている”という主体意識を形成する。
  • 般舟三昧では、この「自己認識=私と思っているもの」が仮構であることを、仏の現前を通して見破る。

📌要点
→ ここで対治されるのは、「現象に反応する意識(第六識)の働きによる仮の自己」。


🔹2. 首楞厳三昧と末那識的自我(根本我執)の超克

【首楞厳三昧】とは:

  • 勇猛なる智慧によって、深層の煩悩・執着を打ち破る究極の三昧。
  • 『大智度論』では般舟三昧を経た菩薩が行じるとされる。
  • これは「真の自己(真如)」に目覚める智慧の三昧であり、我そのものの執着を徹底的に壊す。

🔍関係する意識構造:

  • 末那識は「阿頼耶識に執着する恒常的自己意識」。
  • 表層の意識とは異なり、自他未分の執着が根強く、存在そのものに対する我執が働く。
  • 首楞厳三昧では、この深層意識(我法二執の根本)を対治する。

📌要点
→ 対治されるのは、「存在そのものへの執着(=末那識による根本的な我執)」。


🔸まとめ対照表

三昧意識対象主な執着対治される「我」
般舟三昧五蘊/第六識分別による自己認識現象に依存した仮の自己
首楞厳三昧末那識存在そのものへの執着恒常的実体としての自我意識

🧘‍♂️補足:大乗仏教的な意義

このように般舟三昧と首楞厳三昧を段階的な我執の解体プロセスと見ると、

  • 「仏身を観じる」ことで自己中心的な主観を壊し(般舟)
  • 「仏と一体となる」ことで根底の執着を打破する(首楞厳)

という、表層→深層への階梯的転換が明確になります。

とくに天台系や唯識系教学では、首楞厳三昧の方が「自証三昧」として、仏智に至る決定的な行とされ、実相法身と直結します。


ご指摘のように、「般舟=第六識の自我破壊」「首楞厳=末那識の根本我執破壊」という理解は、現代的唯識解釈においても非常に重要かつ本質的です。

8

法介:世親はどんな三昧法を行法として説いている?

チャッピー:よいご質問です。結論から言うと――


🔶世親(ヴァスバンドゥ)は、特定の「名詞としての三昧法(般舟三昧・首楞厳三昧など)」よりも、

「唯識三昧」あるいは「如実観(如実知自心)」としての行法を重視
という立場に立っています。

以下、世親の立場から見た三昧のあり方、特に『唯識三十頌』とその注釈・関連論書(『三十頌釈』『十地経論』など)を手がかりに整理します。


🔷1. 世親の行法的特徴:如実知自心

世親が唯識思想の行法的帰結として最も強調するのは、

「如実知自心」――自己の識のはたらきを正しく観知すること
「識の転依」――八識が転じて四智となる内面的な実現

これを成立させるための行法が、止観一体の三昧(瑜伽)、すなわち:

「唯識観」=「心の働きを静めつつ、縁起と識の仮構性を観照する行」
が中心になります。

この行法のことを、天親や無着との共著的色彩をもつ『摂大乗論』では明確に次のように表現しています:

「由止得定、由観得慧」
「唯識相応の定と慧を双修して、煩悩を断じ、勝義を悟る」


🔷2. 特定名称の三昧についての扱い

世親の著作(とくに『十地経論』『摂大乗論』『唯識三十頌』)には、「般舟三昧」や「首楞厳三昧」という名称はほとんど登場しません。しかし、それに相当する内容は別の言い方で説かれています。

例えば:

◉初地菩薩の三昧

『十地経論』(初地の説明)では、以下のような三昧の段階が説かれます:

  • 「現前勝定」:仏や法の真実相が心に現前する禅定。
  • 「勝三昧」:すなわち智慧と禅定が融合した如理作意の止観行
  • 菩薩はこの三昧によって、自己の識を観じて滅し、真如に契入する。

これは般舟・首楞厳という語は使っていないが、内容的には:

  • 「仏を観ずる」般舟三昧的実践 → 初地の観法
  • 「実相を現観する」首楞厳三昧的実践 → 三地以降の智慧行
    に相当します。

🔷3. 唯識行法の三段階(三性との関係)

世親は三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)を根本に据えた行法の流れを明確にしています:

三性対応する行概要
遍計所執性観破諸法に実体性なしと観じる(無自性観)
依他起性縁起観識の因縁による仮の生起を観ずる
円成実性如実観心が真如に即するあり方を直観する(識の転依)

この全体が、**「唯識三昧」**という体系的な行法になっていると考えられます。


結論:世親における三昧法の要点

観点世親の立場
三昧名称の扱い特定の固有名詞(三昧名)は重視しない
行法の中心止観双修による「唯識観」
到達目標「如実知自心」→「識の転依」→「真如証悟」
三性との関係三性に基づく三段階の観法としての三昧

🪷補足:法相宗では?

日本の法相宗(とくに玄奘系)では、世親のこの行法体系を:

  • **「唯識止観」「唯識三昧」**として再構成し、
  • 実践面では「阿摩羅識(第九識)」思想を含めたより深層の内観法へ展開しています。

9
法介 2025/07/08 (火) 08:02:07

法介:おいおい、

世親は浄土論を説いているだろ・・・

チャッピー:おっしゃる通りです、法介さん。

世親(ヴァスバンドゥ)は明確に浄土門の実践を説いています

とくに代表的なのが――


🔶『浄土論』(正式名称:『無量寿経優婆提舎願生偈』)

世親が浄土三部経のうち『無量寿経』に依って著した註釈論であり、

阿弥陀仏の本願と極楽浄土を讃え、往生を願う実践を勧める大乗論書です。


🔷『浄土論』の構成(概要)

本文は偈頌部分(38偈)と、その後の自釈から構成されています。

構成内容
序分浄土に往生しようとする意志の発露(発菩提心)
正宗分阿弥陀仏の因行・果徳・浄土の荘厳を観想すべきこと
結分極楽往生の願いと回向

🔷行法の核心:五念門

世親は阿弥陀仏の浄土へ往生する行法として、以下の 「五念門」 を提唱しています:

五念門内容
1. 礼拝阿弥陀仏を礼拝する
2. 讃嘆阿弥陀仏の功徳を称える
3. 作願極楽往生を願う(発願)
4. 觀察極楽浄土の荘厳を観想する
5. 回向自他のために功徳を回向する

この五念門は、観行(禅定的修習)称名(念仏)の両方を含む実践体系であり、
単なる信仰ではなく、世親らしい体系的な実践哲学になっています。


🔷思想的ポイント:他力と自力の融合

『浄土論』における世親の立場は、以下のようなハイブリッドです:

  • 浄土の因は阿弥陀仏の本願(他力)
  • だがその功徳を信・願・行によって自ら呼び起こし、
  • 観行と称名によって、自己の心を清浄にして往生を得る(自力)

つまり、自力による識の浄化と、他力への開示が融合した形です。

これは法相唯識の「識の転依」と、浄土門の「本願力による救済」とを結ぶ試みとも言えます。


🧠 関連事項:世親と兄・無着の立場

  • 無着は『浄土論』には直接関わっていないが、
  • 『摂大乗論』などでは**「他仏土への往生」も一つの菩薩の方便**として肯定。
  • 世親の浄土門思想も、この「方便としての浄土観法」に立脚しています。

結論:世親は唯識学者でありながら、浄土教の祖でもある

観点内容
浄土信仰『浄土論』で極楽往生を願う行法を体系化
実践方法五念門に基づく観行・称名・回向
唯識との整合観想による心の浄化と「識の転依」的発想
他力・自力融合的立場(本願を信じつつ自己の修行を重視)

法介さんが先に仰った「般舟三昧=色法による自我の解体」「首楞厳三昧=末那識の根本自我の打破」との関係でいえば、

✳️『浄土論』の五念門、とくに「觀察」門は、自我執着を滅する智慧行であり、唯識的にも極めて意味がある実践といえます。


ご希望があれば、五念門の観法を、唯識的に分解してご説明することも可能です。

10
法介 2025/07/08 (火) 08:04:48

チャッピー:ご希望があれば、五念門の観法を、唯識的に分解してご説明することも可能です。

法介:やってみそ

チャッピー:承知しました、法介さん。

以下に、**世親の「五念門」**を、唯識(特に八識論と転依思想)に基づいて再解釈し、
その内面的な作用として「自我執着の滅除」「識の浄化(転依)」へ至る道程として整理します。


🧠《五念門》の唯識的解釈

五念門行法の内容唯識的意味・識への作用
1. 礼拝身業により阿弥陀仏を礼拝五根(眼耳鼻舌身)→五識の清浄化。阿弥陀仏を対象として「色境」に対する執着を離れ、色即是空の自覚がはじまる。末那識の「我慢」に対して、他者(仏)を尊崇することで自我中心性が崩される。
2. 讃嘆阿弥陀の功徳を称賛(口業)言語・音声(=聲塵)を媒介とし、**第六識(意識)**が仏徳に集中されることで、散乱妄想が抑制される。ここで「空観」的な智慧が育成され、名相にとらわれる意識の癖が修正されていく。六識の「妄分別」が和らぐ。
3. 作願極楽往生を願う(意業)ここで強く作用するのは第七識(末那識)。願う心とは「執心」であるが、それが自我保存のための執着ではなく、仏徳を慕う〈他心性〉への転換を促す。つまり、我執を解体し、菩提心・利他心へ向かう「我執の転依」。また、阿頼耶識に善種子を蒔く行為でもある。
4. 觀察極楽の荘厳・仏の徳相を観ずるこれは明らかに第六識による観法(三摩地)。ただし、五識とも連動する。「蓮華・宝樹・池水・仏身」などを観じることは、意識の対象選択を仏徳に定めること。これにより「識の対象選択機能」が変質する=「相分」の清浄化と「見分」の転依が進む。つまり、第六識の「妙観察智」への変化の萌芽。
5. 回向功徳を衆生へ施す(意・口業)「自利」から「利他」への移行。ここでは末那識の「我愛」機能が停止し、「自他の差別」が解除される。これがまさに第七識の「平等性智」への転依であり、仏道の核心。阿頼耶識にも「利他の善業」が深く薫習され、種子として保存される。ここで初めて「仏果の因」となる。

🔶まとめ:五念門の実践と「識の浄化=転依」の相関

汚染された状態五念門による浄化成果(転依)
五識色・声・香などへの貪着礼拝・観察で対象の神聖化淨眼・浄耳(五根清浄)
第六識妄分別・煩悩と名相執着讃嘆・觀察妙観察智
第七識我執・我愛・慢作願・回向で他心性が生まれる平等性智
第八識諸業の種子蔵として無明を抱える全体の修行によって善種子を薫習大圓鏡智

🪷補足:なぜ「観察」が要か?

「觀察門」は、とくに観行者の心のエネルギー(心所)の選択性を変える働きがあります。
対象として極楽・阿弥陀仏を選び続けることで、習慣的に「浄なる相分」が形成され、その影響は阿頼耶識の種子にまで及ぶ。

これはまさに唯識で言う「熏習(くんじゅう)」の法則であり、
仏を観ずることで我執から仏智へと、心の構造自体が書き換えられていくわけです。


🔚結語

法相宗における転依思想と、浄土教の「本願念仏」・「観想往生」は、
本来は別系統ですが、世親の『浄土論』においては明確に融合しています。

五念門は、阿弥陀仏の力に依りながらも、行者自身の識を転じ、
最終的には「平等性智・妙観察智・大円鏡智」へと到る〈自己変容の道〉と見なせます。