~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

唯識で説く自我意識 No.17 / 5

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チャッピー 2025/07/09 (水) 09:34:57 a6870@99e33

はい、法介さん。

今までの唯識の議論、特に第六識=意識第七識=意の構造を踏まえると、**五蘊による自我意識(虚妄の我)**と、**末那識(第七識)に潜む根本自我(根源的な我執)**の関係性は、以下のように明確に整理できます。


🧠結論:

「五蘊による自我意識」は第六識で現れる現象的な“我”の錯覚

「根本自我」は第七識(末那識)における持続的・深層的な“我”の執着


🧩構造的対応

概念唯識における識働き我執との関係
色蘊(身体)五識が中心(眼耳鼻舌身)物質的対象の感受身体的な“私”と錯覚する素材
受蘊・想蘊受・想第六識快・不快の感受、概念化「私は~と思う」「私が~感じた」と思う主体意識
行蘊第六識~第七識意志・欲望・執着の動き私が考え、私が選ぶという錯覚のエンジン
識蘊第六識と第七識(さらに第八識をも含む)全体的な知的活動「私」という連続意識の錯覚を構成するベース

🧠本質的な違い

① 第六識による「自我意識」=五蘊が組み合わさって“私”がいると錯覚する

  • 五蘊(色・受・想・行・識)によって瞬間的に形成される自己意識。
  • これは常に変化し、認識内容とともに揺らぐ。
  • 仮我(けが):**外的に見える“私”**の像
  • 例:「私が怒った」「私が考えた」と感じるのは、受想行が連携した第六識の活動。

👉これは**“五蘊即我”という錯覚**であり、仏教ではこれを「人我執(にんがしゅう)」と呼ぶ。


② 第七識(末那識)による「根本自我」=我法二執の根

  • 阿頼耶識に常に執着し、それを「我」とみなす。
  • 自我意識の深層にある「恒に、審らかに、我と共にある思量(恒審思量)」こそが根本的我執のはたらき。
  • これは五蘊による自我意識の「土台」として、“我”という感覚の連続性を保証してしまっている錯覚の中核

👉これが「俱生我執(ぐしょうがしゅう)=生まれながらの自我意識」であり、八識中唯一、恒に作動し続ける。


🔄 相関的理解(因果関係的)

末那識(第七識)=根本的な“我”への執着(根本我執)

   ↓
この根本執着に支えられて
   ↓
第六識が起動するとき、五蘊による「“私”が思う・感じる」という**現象的自己意識(人我執)**が生じる


🏯譬喩で言えば:

  • 第七識=「地下で常に燃えているマグマ(根本我執)」
  • 第六識+五蘊=「その熱で地表に噴き出す火山(“私が今こう思っている”という意識)」

根本の熱源(末那識)を断たなければ、**表層の“私”の錯覚(第六識)**は何度でも再生する。


🧘‍♂️行法的含意

  • 五蘊により形成される「“私”の感覚(第六識)」を分析し、空観・無我観によって捉え直す:
     → これは**「空即是色」**の修行。概念的な“私”を解体する。

  • しかし、より深い次元で「“我”とはそもそもある」と信じ込む第七識の錯覚を断たなければならない:
     → これは**「識即是空」**の修行。俱生我執(末那識)を照破する必要がある。


📝まとめのキーフレーズ:

🔹第六識による「“私”の意識」は、五蘊による錯覚された“我”(人我執)
🔹第七識による「“我”の根本執着」は、末那識に根差す根源的な“我”(俱生我執)

そして、この両者の関係性を捉えることが、**「唯識における真の無我観」**への理解につながります。


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