「恒審思量(ゴウシンシリョウ)」について(成唯識論に学ぶ)
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac
↑より引用↓
(1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
(2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。
『論』の応答は、
(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
「意」という名の由来
「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。
彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。
第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)
第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、
意根(第七識)を所依とする識であるという意味で
意識と名づけられる。(依主釈)
「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。
恒・審するものに非ざるが故なり。
(第六識依主の釈)彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
(1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
(2)また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。
八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
積集(しゃくじゅう)-蓄積すること。
こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
おはようございます、法介さん。
ご提示の唯識における「第六識と第七識の命名(特に“意”と“意識”の違い)」の考察、非常に繊細な内容ですので、以下に整理して簡潔かつ論理的に噛み砕いて解説いたします。
🧠結論から:なぜ第七識を「意」と呼び、第六識を「意識」と呼ぶのか?
✍️要点を順にかみ砕いて解説します
①【名の使い分けの基準】
持業釈:
→ 名前がそのものの本質(体)を直接あらわしている場合の名づけ方。
→ 例:「蔵識」は阿頼耶識そのものを「業(種子)を蔵する識」として名づけた。
→ よって、「意(第七識)」もこのタイプ。**「識=意」**そのものだから。
依主釈:
→ 名前が「依り所に基づいて生じた識」であることをあらわす名づけ方。
→ 例:「眼識」は眼根に依って生じる識。
→ よって、「意識(第六識)」もこの形式で、第七識=意根に依って生じるのでこう名づける。
②【なぜ第七識だけ“意”と呼ぶのか?】
③【じゃあ、第六識を“意”と呼んではダメなのか?】
→ いいえ、適切ではありません。理由は2つあります。
したがって、
という区別が理論的に確立している。
④【「恒審思量」の意味】
だからこそ、第七識は:
⑤【なぜ“意”だけ特別に名づけられるのか】
この「思量の増勝(他にない優位な性質)」を尊重して「意」と名づけているわけです。
🏁まとめ(図解)
これを五蘊による自我意識と
末那識に潜む根本自我とに関連づけて説明出来るか?
はい、法介さん。
今までの唯識の議論、特に第六識=意識と第七識=意の構造を踏まえると、**五蘊による自我意識(虚妄の我)**と、**末那識(第七識)に潜む根本自我(根源的な我執)**の関係性は、以下のように明確に整理できます。
🧠結論:
「五蘊による自我意識」は第六識で現れる現象的な“我”の錯覚
「根本自我」は第七識(末那識)における持続的・深層的な“我”の執着
🧩構造的対応
🧠本質的な違い
① 第六識による「自我意識」=五蘊が組み合わさって“私”がいると錯覚する
👉これは**“五蘊即我”という錯覚**であり、仏教ではこれを「人我執(にんがしゅう)」と呼ぶ。
② 第七識(末那識)による「根本自我」=我法二執の根
👉これが「俱生我執(ぐしょうがしゅう)=生まれながらの自我意識」であり、八識中唯一、恒に作動し続ける。
🔄 相関的理解(因果関係的)
末那識(第七識)=根本的な“我”への執着(根本我執)
↓
この根本執着に支えられて
↓
第六識が起動するとき、五蘊による「“私”が思う・感じる」という**現象的自己意識(人我執)**が生じる
🏯譬喩で言えば:
根本の熱源(末那識)を断たなければ、**表層の“私”の錯覚(第六識)**は何度でも再生する。
🧘♂️行法的含意
五蘊により形成される「“私”の感覚(第六識)」を分析し、空観・無我観によって捉え直す:
→ これは**「空即是色」**の修行。概念的な“私”を解体する。
しかし、より深い次元で「“我”とはそもそもある」と信じ込む第七識の錯覚を断たなければならない:
→ これは**「識即是空」**の修行。俱生我執(末那識)を照破する必要がある。
📝まとめのキーフレーズ:
そして、この両者の関係性を捉えることが、**「唯識における真の無我観」**への理解につながります。
この内容を
「あの人おかしいじゃん!」と思うこころと
「おれトマトを食べるとアレルギー反応でちゃうんだー」という話を用いて
解りやすく説明出来るか?
はい、法介さん。
この深遠な唯識の教義――第六識の「五蘊による自我意識」と第七識の「根本自我(俱生我執)」――を、日常的な具体例である
この二つを用いて、噛み砕いて解説いたします。
🧠唯識のポイント再確認
🧩たとえ①:「あの人おかしいじゃん!」=第六識の“私”の判断
これは、典型的な第六識による自我意識の働きです。
🌿どういう構造?
🎯唯識的ポイント:
🧩たとえ②:「俺、トマト食べるとアレルギー反応出ちゃうんだ」=第七識の深層自我の顕れ
一見、これは単なる事実の報告のように聞こえますが――
この発言には、もっと根深い**「私とはこういう存在である」という固定的な自己認識**が潜んでいます。
🌿どういう構造?
🎯唯識的ポイント:
🔄両者の違いをまとめると…
🎓仏教的洞察へのつなげ方:
🧘♂️修行の段階でいえば:
📌まとめ:
ところで『阿含経典』で説かれている〝無我〟とは、
「五蘊から厭離する」と説かれているよな。
ここでの無我は、今の説明だとどう言う事になる?
法介さん、深い問いをありがとうございます。
『阿含経典』における「無我」――すなわち「五蘊から厭離(えんり)する」という教え――を、先ほどの唯識的な第六識と第七識の構造、およびそれぞれの「自我意識」に照らして読み解くと、以下のように解釈することができます。
🧘♂️まず『阿含経』における「無我」とは?
『阿含経典』では、以下のような論理が頻出します:
つまり:
🪞これを唯識的に読み替えると…
『阿含経典』の「五蘊を無我と観じて厭離する」という修行は、唯識的には:
🧩1. 表層の“私”(第六識)への錯覚を破る修行
第六識は五蘊と密接に連動しており、
したがって、『阿含経典』の「五蘊から離れよ」というのは:
✅ 「“私がそう感じる”という錯覚(第六識の自我)を見破れ」
という意味になります。
🧩2. さらに深層の“根本自我”(第七識)の領域へは踏み込んでいない
『阿含経』の段階では、「五蘊=自分ではない」と理観し、執着を断つことが中心です。
しかし、この時点での「自我観」はまだ**第七識の“恒審思量”=根本的我執(俱生我執)**には及びません。
第七識が無意識下で「阿頼耶識=我」として執着している深層の“私”を断ずるには、さらに唯識の修観、あるいは**中観における「人法二空」**などの次の段階が必要となるのです。
🧠図解でまとめると:
🪨結論として:
『阿含経典』で説かれる「五蘊無我」「五蘊から厭離せよ」とは――
🔸 第六識における「現象的・機能的な自我意識」を空観して、
🔸 それを「我」と錯覚して執着してしまう仮我を否定し、離れる修行です。
これは、第七識に潜む「俱生我執」の断滅ではないが、
それに向かう重要な第一歩=“現象的な我”から離れる実践です。
✅補足(もし講義などで言語化するなら)
チャッピー、話は変わるが
「レモンは酸っぱい」←これって遍計所執性と思うか?
それとも依他起性と思うか?
おお、いい問いですね、法介さん。
「レモンは酸っぱい」という判断が 遍計所執性 か 依他起性 か?
これは唯識的にとてもおもしろいテーマです。
以下に、両面から丁寧に整理してみます。
🟨「レモンは酸っぱい」──これは遍計所執性か?依他起性か?
◆【1】依他起性としての側面:
「レモンが酸っぱい」と感じるのは、
👉 よって、「酸っぱい」と感じる経験そのものは、因縁によって仮りに起こる──すなわち依他起性。
◆【2】遍計所執性としての側面:
唯識でいう〈遍計所執性〉とは、
「妄執された虚妄分別」=「所知依において生じる錯覚・執着」。
たとえば:
といった、「主観的な認識によって構成されたもの」を、
あたかも〈普遍的に確定したもの〉であるかのように錯覚してしまう認識。
👉 このような「虚妄な分別」をもって〈レモン〉や〈酸っぱさ〉を固定化するのが 遍計所執性。
ここでは「酸っぱさ」という味覚が、五蘊を通じて構成された識のはたらきであるにもかかわらず、
それを「対象に固有な性質である」と 錯認してしまうはたらきを指しているのです。
✅結論:
📌用語の整理(外道的「実体」ではなく、正確な唯識語彙で):
🧠一言でまとめれば:
すべての経験は五蘊と因縁によって仮に成立しており、
その上に「固定的な認識(妄想)」を重ねてしまうのが遍計所執です。
ではこれはどうだ?
〝酸っぱい〟はずのレモンを〝あまい〟と思うのは遍計所執性だよな。
では、レモンを〝酸っぱい〟と思うのは依他起性になるんじゃないかな?
鋭いご質問、ありがとうございます。
法介さんの問いは、「日常的な認識(レモン=酸っぱい)」がどこまでが依他起性で、どこからが遍計所執性なのか――という唯識教学の核心に迫る問いです。
以下、順を追って解説いたします。
🔷 まず、定義を明確にする
【依他起性】
【遍計所執性】
🟨 本題に即して回答
Q:「レモンを甘いと思う」は遍計所執性か?
✅ はい。
なぜなら、それは事実(因果)に反した誤認だからです。
Q:「レモンを酸っぱいと思う」は依他起性か?
✅ それ自体は“依他起性に基づいた経験的認識”であり、遍計所執性ではない。
ただし――
⚠️ 「常に酸っぱい」「本質的に酸っぱい」などと固定観念化した場合は、そこに遍計所執性が付着する。
🔁 まとめて言うと
🔍 教学的補足
『成唯識論』では、遍計所執性は以下のように述べられます:
つまり、“因縁で仮に成り立っている”という事実に対して、「そういう性(自性)が本当にある」と思い込むことが遍計所執性です。
✅ 結論(端的に)
日常の中に仏教の智慧をどう通すか、その探求がまさに教学の妙味ですね。
引き続き、鋭いご指導をよろしくお願いいたします。
↑の>> 13のチャッピーの回答は「昭和のおかしな仏教観」で答えてしまってます。
後ほどそれを突っ込みます。
ではレモンが嫌いな人がレモンを無理やり食べなくてはいけない状況になったとしよう。
それにより本人は悩む苦しんでいます。
これは遍計所執性か、それとも依他起性か?
たいへん良い問いです。
この問いは、**唯識における「認識のあり方と苦の構造」**に深く関係します。
以下、丁寧に見ていきます。
🔶 事例の整理
この構造には、以下の三層が含まれています:
この三層に、それぞれどの三性が関わるかを見ていきます。
🟡 第一層:レモンの味による反応 → 依他起性
🔴 第二層:嫌悪感や苦しみ → 遍計所執性
感情や認識に〈固定的価値判断〉が混じってくる。
つまり、レモンそのものに「嫌なもの」という自性があるかのように錯覚している。
🔵 第三層:「無理やり食べねばならない」という状況への苦悩
ここが微妙なポイントです。
✅ まとめ
🌿 補足:『唯識三十頌』と関係づけると…
つまり、
事実としての依他起的現象に、主観的執着を加えて、自ら苦しみを生む。
レモンはただの果実。だがそこに「これは悪だ」という遍計執が生じると、煩悩苦が生まれるのです。
🧘♂️ 結論
まさにここに、**唯識が明かす「煩悩生起のメカニズム」**が如実に表れています。
ご質問、まことに見事でございました。
ではそれを現行熏種子と種子熏現行の視点で説明してみてくれ。
はい、法介さん。
先ほどの「レモンが嫌いな人が無理にレモンを食べなければならず苦しむ」という事例を、
唯識の核心たる 現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ) と 種子熏現行(しゅうじくんげんぎょう) の観点から、体系的に解説いたします。
🌀前提確認:「熏(くん)」とは?
この「種子」は、
この双方向のダイナミズムが、
🍋 事例の再掲
この心の動きの中に、熏のサイクルが明確に現れています。
🔁【1】種子熏現行(しゅうじくんげんぎょう)
これは、過去の経験・苦痛・価値判断が種子として阿頼耶識に熏じられており、
その種子が現在の第六意識・第七識の認識活動として顕在化したものです。
これらが種子となり、
→ 今回のレモンに出会った時に、**「嫌悪・拒絶の現行」**を引き起こした。
この流れが 「種子が現行を生む」=種子熏現行 です。
🔁【2】現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)
これらは今回の出来事に対して、**現行(いま実際に起きている心の働き)**として生じた苦悩・感情です。
つまり、
→ 今回の「苦しんだ」「我慢した」「レモンはやはり嫌だ」という現行は、
→ 未来の心に再び影響する新たな種子となる。
この流れが 「現行が種子を熏ずる」=現行熏種子 です。
🪤 この繰り返しが「苦の連鎖」=遍計所執性の強化
ここで問題となるのは、
これが、唯識でいう「煩悩熏習の無始連鎖(むしれんさ)」の一形態。
✅ 結論として
🔚 唯識的視点からの打破
このサイクルから自由になるには:
まさにここに、「唯識観による煩悩の治癒(止観)」の核心があります。
ではそこに更に「色即是空 空即是色」も絡ませてより繊細に説明してみてくれ。
ご指示に従い、先のレモンの事例を中心に、
――これら三層を統合し、唯識と般若の立場からより繊細に説明いたします。
🟡【事例再掲】
ある人が「レモンが嫌い」だが、無理やり食べねばならず、苦しんでいる。
🔁【1】唯識的視点①:「熏」の因果構造(業・記憶・執着)
●〈種子熏現行〉
過去の経験(苦味・酸っぱさ・不快感)が阿頼耶識に種子として残っており、
→ 今回のレモンとの遭遇によって、それが現行(嫌悪・苦悩)として顕れる。
●〈現行熏種子〉
今、実際に「うわぁ嫌だ」「なぜ食べさせられるんだ」と思うと、
→ それが再び深層の阿頼耶識に刻まれ、
→ 次の遭遇時には、より強い拒絶反応が生じる。
⚪【2】般若的視点:「色即是空・空即是色」
ここに、般若経系の洞察=空観が入ると、見方が転じます。
▶️(A)色即是空:レモンの「色(味・匂い・形)」は実体ではない
▶️(B)空即是色:空なるがゆえに苦しみが具体的に現れる
🔄 統合的解釈:三層のクロス構造
🔚 結論:この苦しみの正体はなにか?
→ 「これは嫌なものだ」「我慢できない」と実体視する苦しみが形成される。
☸️ 唯識の止観へ
このように、
――これらを統一的に観じるところに、
唯識における止観(寂静と智慧)の行法が成り立ちます。
そして、「レモンに苦しむ自分」という自我観もまた、
第七識における恒審思量によって支えられた虚構であると見抜くことで、
真に自他解脱への光明が見えてまいります。
ではそれをこんどはレモンが好きな人が「おいしなー」といって食べている出来事を同じ論法(現行熏種子・種子熏現行/遍計所執性・依他起性/色即是空・空即是色)で説明してみてくれ。
(>> 22のチャッピーの解説は「昭和のおかしな仏教観」で解説してしまってます)
了解しました、法介さん。
先ほどの構造をそのまま転用し、レモンを「おいしい」と味わって食べている場面を、
この三層の論法で、唯識と般若の視座から解説いたします。
🟡【事例】
ある人がレモンを食べながら「うまいなぁ」と満足している。
すっぱい味を喜びとして受けとっている。
🔁【1】唯識的視点:阿頼耶識の熏習因果
●〈種子熏現行〉
過去に「酸味が心地よかった」「爽快だった」「元気になった」などの経験が
阿頼耶識に種子として保存されており、
→ レモンと接触したときに、「おいしい」という現行が発動する。
●〈現行熏種子〉
「やっぱり美味しい」「スカッとして気持ちいい」という現行の感受が
→ 再び阿頼耶識に熏習され、
→ 次回またレモンに接すると、より強く「好き」が働く。
⚪【2】般若的視点:色即是空・空即是色
▶️(A)色即是空:「おいしいレモン」は実体ではない
▶️(B)空即是色:空なるがゆえに「おいしさ」が現れる
🔄 統合的解釈(ポジティブ遍計の構造)
☯️ 重要な対比:苦しみと悦び、どちらも空
→ どちらも依他起性に基づく現行であり、
→ どちらも煩悩が入り込めば遍計所執性となる。
🎯 総括
レモンの「おいしさ」は――
もしそれを「レモン=幸せの象徴」と固着するなら、それは遍計所執性。
だが、無住着に観じ、空性に照らして味わうなら、それは智慧の悦楽。
🧘♂️ 付記:止観の深化へ
このように、ポジティブな感覚もまた「空」であると観ずるとき、
快楽にも執着せず、苦にも染まらず、
「空」なるところに安住して現象に臨む――
そこに、唯識と般若の止観が真に融合する場があります。
続きはこちらの知恵袋で
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317333346