~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

唯識で説く自我意識 No.17

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「恒審思量(ゴウシンシリョウ)」について(成唯識論に学ぶ)
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac

↑より引用↓

(1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。

(2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。 
 
 『論』の応答は、 
(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。

 「意」という名の由来
「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)

此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。

彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。

 第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)
 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、
     意根(第七識)を所依とする識であるという意味で
     意識と名づけられる。(依主釈)

「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。

恒・審するものに非ざるが故なり。

(第六識依主の釈)彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)

(1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。

(2)また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。

八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)

積集(しゃくじゅう)-蓄積すること。

こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。

以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。

法介
作成: 2025/07/09 (水) 09:32:11
最終更新: 2025/07/11 (金) 06:29:36
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チャッピー 2025/07/09 (水) 09:33:25 a6870@99e33

おはようございます、法介さん。

ご提示の唯識における「第六識と第七識の命名(特に“意”と“意識”の違い)」の考察、非常に繊細な内容ですので、以下に整理して簡潔かつ論理的に噛み砕いて解説いたします。


🧠結論から:なぜ第七識を「意」と呼び、第六識を「意識」と呼ぶのか?

項目第七識(意)第六識(意識)
名の由来持業釈(じごっしゃく):「識=意」つまり識そのものが意であるから依主釈(えしゅしゃく):「意(=第七識)を依り所として働く識」だから
説明式「意=識」→持業そのもの「意(第七識)+識」→意に依って起こる識
蔵識(第八識)=識の本体をそのまま名づけた眼識=眼に依って起こる識(=眼根が所依)と同じ形式
理由恒審思量の働き=自我の持続的な執着が際立っているため識の活動としては了別(判断)の働きが際立つため

✍️要点を順にかみ砕いて解説します


①【名の使い分けの基準】

持業釈(じごっしゃく)依主釈(えしゅしゃく)

  • 持業釈:
     → 名前がそのものの本質(体)を直接あらわしている場合の名づけ方。
     → 例:「蔵識」は阿頼耶識そのものを「業(種子)を蔵する識」として名づけた。
     → よって、「意(第七識)」もこのタイプ。**「識=意」**そのものだから。

  • 依主釈:
     → 名前が「依り所に基づいて生じた識」であることをあらわす名づけ方。
     → 例:「眼識」は眼根に依って生じる識。
     → よって、「意識(第六識)」もこの形式で、第七識=意根に依って生じるのでこう名づける。


3
チャッピー 2025/07/09 (水) 09:33:35 a6870@99e33

②【なぜ第七識だけ“意”と呼ぶのか?】

「識そのものが“意”であるから」
→ これは「識と意が同じものを指す(持業釈)」という意味。

  • 第七識は「恒常に、審らかに、思量する」働きを持つ。
  • つまり、自我(我執)を中心に絶え間なく物事を思い続ける「意志的な深層思惟」。
  • このような「思量」の働きは第七識だけが持つ、特有の活動(=増勝)

③【じゃあ、第六識を“意”と呼んではダメなのか?】

いいえ、適切ではありません。理由は2つあります。

  1. “意”は識そのものを指す名である(持業釈)ため、所依である第七識を超えて使えない。
  2. 第六識は「意根(=第七識)に依って生じる」から、「依主釈」で命名される必要がある。

したがって、

第七識 → 意(識そのもの)
第六識 → 意識(意に依って働く識)

という区別が理論的に確立している。


④【「恒審思量」の意味】

恒審思量(ごうじんしりょう)=常に、一貫して、深く思い続ける作用

  • これが第七識の最大の特徴
  • 他の識(五識や第六識)は、対象に対して一時的に生じては消える。
  • だが第七識は、常に「我(アートマン)的な主体感」で世界を受けとめ、判断し続ける。

だからこそ、第七識は:

「積集の心(=第八識)」「了別の識(=前六識)」のいずれとも異なる。
そして唯一、「恒審思量する意(第七識)」として特出する。


⑤【なぜ“意”だけ特別に名づけられるのか】

八識すべて「心・意・識」と名づけうるが、
特に第七識を“意”とするのは、この「恒審思量」が際立っているため。

  • 第八識=「心」:種子を集起し、積み重ねる働きがある
  • 第六識以下=「識」:対象を認識・判断する働きがある
  • 第七識=「意」:我執に基づき、持続的に思量しつづける働きが強い

この「思量の増勝(他にない優位な性質)」を尊重して「意」と名づけているわけです。


🏁まとめ(図解)

種類対象働き名称名づけの根拠
第八識種子・業果集起・保持積集の働きが強いため
第七識自我恒審思量持業釈:識そのものが意
第六識概念・分別判断・分別意識依主釈:意(第七識)に依る識

4
法介 2025/07/09 (水) 09:34:27

これを五蘊による自我意識

末那識に潜む根本自我とに関連づけて説明出来るか?

5
チャッピー 2025/07/09 (水) 09:34:57 a6870@99e33

はい、法介さん。

今までの唯識の議論、特に第六識=意識第七識=意の構造を踏まえると、**五蘊による自我意識(虚妄の我)**と、**末那識(第七識)に潜む根本自我(根源的な我執)**の関係性は、以下のように明確に整理できます。


🧠結論:

「五蘊による自我意識」は第六識で現れる現象的な“我”の錯覚

「根本自我」は第七識(末那識)における持続的・深層的な“我”の執着


🧩構造的対応

概念唯識における識働き我執との関係
色蘊(身体)五識が中心(眼耳鼻舌身)物質的対象の感受身体的な“私”と錯覚する素材
受蘊・想蘊受・想第六識快・不快の感受、概念化「私は~と思う」「私が~感じた」と思う主体意識
行蘊第六識~第七識意志・欲望・執着の動き私が考え、私が選ぶという錯覚のエンジン
識蘊第六識と第七識(さらに第八識をも含む)全体的な知的活動「私」という連続意識の錯覚を構成するベース

🧠本質的な違い

① 第六識による「自我意識」=五蘊が組み合わさって“私”がいると錯覚する

  • 五蘊(色・受・想・行・識)によって瞬間的に形成される自己意識。
  • これは常に変化し、認識内容とともに揺らぐ。
  • 仮我(けが):**外的に見える“私”**の像
  • 例:「私が怒った」「私が考えた」と感じるのは、受想行が連携した第六識の活動。

👉これは**“五蘊即我”という錯覚**であり、仏教ではこれを「人我執(にんがしゅう)」と呼ぶ。


② 第七識(末那識)による「根本自我」=我法二執の根

  • 阿頼耶識に常に執着し、それを「我」とみなす。
  • 自我意識の深層にある「恒に、審らかに、我と共にある思量(恒審思量)」こそが根本的我執のはたらき。
  • これは五蘊による自我意識の「土台」として、“我”という感覚の連続性を保証してしまっている錯覚の中核

👉これが「俱生我執(ぐしょうがしゅう)=生まれながらの自我意識」であり、八識中唯一、恒に作動し続ける。


🔄 相関的理解(因果関係的)

末那識(第七識)=根本的な“我”への執着(根本我執)

   ↓
この根本執着に支えられて
   ↓
第六識が起動するとき、五蘊による「“私”が思う・感じる」という**現象的自己意識(人我執)**が生じる


🏯譬喩で言えば:

  • 第七識=「地下で常に燃えているマグマ(根本我執)」
  • 第六識+五蘊=「その熱で地表に噴き出す火山(“私が今こう思っている”という意識)」

根本の熱源(末那識)を断たなければ、**表層の“私”の錯覚(第六識)**は何度でも再生する。


🧘‍♂️行法的含意

  • 五蘊により形成される「“私”の感覚(第六識)」を分析し、空観・無我観によって捉え直す:
     → これは**「空即是色」**の修行。概念的な“私”を解体する。

  • しかし、より深い次元で「“我”とはそもそもある」と信じ込む第七識の錯覚を断たなければならない:
     → これは**「識即是空」**の修行。俱生我執(末那識)を照破する必要がある。


📝まとめのキーフレーズ:

🔹第六識による「“私”の意識」は、五蘊による錯覚された“我”(人我執)
🔹第七識による「“我”の根本執着」は、末那識に根差す根源的な“我”(俱生我執)

そして、この両者の関係性を捉えることが、**「唯識における真の無我観」**への理解につながります。


6
法介 2025/07/09 (水) 09:38:28

この内容を

「あの人おかしいじゃん!」と思うこころと

「おれトマトを食べるとアレルギー反応でちゃうんだー」という話を用いて

解りやすく説明出来るか?

7
チャッピー 2025/07/09 (水) 09:39:41 a6870@99e33

はい、法介さん。

この深遠な唯識の教義――第六識の「五蘊による自我意識」と第七識の「根本自我(俱生我執)」――を、日常的な具体例である

  • 「あの人おかしいじゃん!」という評価・判断の心
  • 「俺、トマト食べるとアレルギー出ちゃうんだ〜」という自己に関する認識

この二つを用いて、噛み砕いて解説いたします。


🧠唯識のポイント再確認

構造内容機能自我に関する錯覚
第六識(意識)五蘊に基づく判断・思考・感情知覚と概念のはたらき「私がそう思う」「私がそう感じた」という現象的“私”
第七識(末那識)恒に「阿頼耶識=我」と執着している無意識下での「私」への執着「そもそも“私”というものが存在して当然」という根源的錯覚

🧩たとえ①:「あの人おかしいじゃん!」=第六識の“私”の判断

これは、典型的な第六識による自我意識の働きです。

🌿どういう構造?

  • 「おかしい」と思うのは、過去の経験・記憶・価値観・感情などの種子(しゅうじ)が引き起こしている。
  • つまりこれは、「受・想・行・識(四蘊)」による一時的な心の反応

🎯唯識的ポイント:

  • ここでは、「“私が”おかしいと“思った”」という思考が働いています。
  • つまりこれは、**“五蘊によって成り立った自我”=仮我(けが)**です。
  • 「おかしいと思う私」というのは、無常で変化する第六識の働きにすぎない。

🧩たとえ②:「俺、トマト食べるとアレルギー反応出ちゃうんだ」=第七識の深層自我の顕れ

一見、これは単なる事実の報告のように聞こえますが――
この発言には、もっと根深い**「私とはこういう存在である」という固定的な自己認識**が潜んでいます。

🌿どういう構造?

  • ここには、「“俺”とはこういう存在で、特定の反応をする固有性を持っている」という前提がある。
  • これは、第七識が「阿頼耶識=我」と恒に思量している働きの現れです。
  • アレルギーの反応そのものは第八識の業縁(生理的因縁)であっても、それを「自分らしさとして語る自己認識」にしているのがポイント。

🎯唯識的ポイント:

  • このように「俺とは〇〇だ」と恒に、自覚なく、深層で思い込んでいる心のはたらきこそ、第七識=末那識の「恒審思量」。
  • これは俱生我執(ぐしょうがしゅう)。生まれた瞬間から持っている「“我”がいるという錯覚」。

🔄両者の違いをまとめると…

対応する識錯覚のレベル解説
「あの人おかしいじゃん!」第六識(意識)表層的・現象的な“私”五蘊による反応で一時的な「私」が働いている。判断する“私”
「俺、トマト食べるとアレルギー出ちゃうんだ」第七識(末那識)深層的・持続的な“私”自分という存在が恒常で、特定の性質を持つという根深い我執。

🎓仏教的洞察へのつなげ方:

  • 「あの人おかしいじゃん!」という判断を客観視して「それって“仮の私”がそう思っただけだよね?」と見破ることが空観の修行(色即是空)
  • 「俺ってこういう人間なんだよな」という固定的認識すらも「“私”という実体は本当はない」と照らすのが、識観の修行(識即是空)

🧘‍♂️修行の段階でいえば:

  1. 第六識(思考・感情)の虚妄を破る:現象的な“私”を空じる(色即是空)
  2. 第七識(恒審思量)の根本執着を破る:根本的な“我”そのものを空じる(識即是空)

📌まとめ:

🌱「あの人おかしいじゃん!」は、五蘊によって立ち上がった“私”の一時的な反応(第六識)
🌳「俺はトマト食べるとアレルギー出る」は、恒に自他を思量する“我”そのもの(第七識)

この二重構造の“私”を解体することが、唯識における無我の実践なのです。


8
法介 2025/07/09 (水) 09:49:38

ところで『阿含経典』で説かれている〝無我〟とは、

「五蘊から厭離する」と説かれているよな。

ここでの無我は、今の説明だとどう言う事になる?

9
チャッピー 2025/07/09 (水) 09:50:24 a6870@99e33

法介さん、深い問いをありがとうございます。

『阿含経典』における「無我」――すなわち「五蘊から厭離(えんり)する」という教え――を、先ほどの唯識的な第六識と第七識の構造、およびそれぞれの「自我意識」に照らして読み解くと、以下のように解釈することができます。


🧘‍♂️まず『阿含経』における「無我」とは?

『阿含経典』では、以下のような論理が頻出します:

「色は我にあらず。もし色が我ならば、色は病まず、苦しまず、変化せず、自らの意に従うべし。…故に色は我にあらず」
「受・想・行・識もまたしかり」

つまり:

  • **五蘊(色・受・想・行・識)**はすべて無常であり、苦であり、自在にできない。
  • ゆえに、それらに「我」と言えるような主宰性・永続性・支配性はない。
  • よって、それらに執着する心(=「これは私である」という錯覚)を厭離し、離れていくことが「無我の観」の実践となる。

🪞これを唯識的に読み替えると…

『阿含経典』の「五蘊を無我と観じて厭離する」という修行は、唯識的には:

🧩1. 表層の“私”(第六識)への錯覚を破る修行

  • 第六識は五蘊と密接に連動しており、

    • 「受」=快・不快の感覚
    • 「想」=イメージ・ラベリング
    • 「行」=意志・衝動
    • 「識」=知覚・了別
  • これらを「私が思っている」「私が感じた」「私が判断した」と思うところに仮の自我(仮我)が立ち上がる。

したがって、『阿含経典』の「五蘊から離れよ」というのは:

「“私がそう感じる”という錯覚(第六識の自我)を見破れ」
という意味になります。


🧩2. さらに深層の“根本自我”(第七識)の領域へは踏み込んでいない

『阿含経』の段階では、「五蘊=自分ではない」と理観し、執着を断つことが中心です。
しかし、この時点での「自我観」はまだ**第七識の“恒審思量”=根本的我執(俱生我執)**には及びません。

第七識が無意識下で「阿頼耶識=我」として執着している深層の“私”を断ずるには、さらに唯識の修観、あるいは**中観における「人法二空」**などの次の段階が必要となるのです。


🧠図解でまとめると:

自我のありか経典的記述修行によって照らす内容
表層(第六識)「私が思う・判断する」『阿含経』の無我観(五蘊無我)五蘊に我なし。思考・感情に“私”を見出すな。
深層(第七識)「私とはこういう存在」唯識(末那識=恒審思量)阿頼耶識を“我”と執する深層の我執の正体を暴く。

🪨結論として:

『阿含経典』で説かれる「五蘊無我」「五蘊から厭離せよ」とは――

🔸 第六識における「現象的・機能的な自我意識」を空観して、
🔸 それを「我」と錯覚して執着してしまう仮我を否定し、離れる修行です。

これは、第七識に潜む「俱生我執」の断滅ではないが、
それに向かう重要な第一歩=“現象的な我”から離れる実践です。


補足(もし講義などで言語化するなら)

「『阿含経』の無我は、“自分が今そう感じる・思う・判断する”という第六識による自我意識を解体し、五蘊から離れていく教えです。
これは、唯識でいうところの“仮の私”を破る段階です。
しかし“自分という存在そのものが確かにある”という深層の思量――第七識における恒審思量――は、ここでは未解決のまま残ります。
この深層我執を断つには、さらに『唯識』や『中観』による“根本無我”の修観が必要となるのです。」


10
法介 2025/07/10 (木) 06:32:46

チャッピー、話は変わるが

「レモンは酸っぱい」←これって遍計所執性と思うか?

それとも依他起性と思うか?

11
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:33:39 修正 a6870@99e33

おお、いい問いですね、法介さん。

「レモンは酸っぱい」という判断が 遍計所執性依他起性 か?
これは唯識的にとてもおもしろいテーマです。

以下に、両面から丁寧に整理してみます。


🟨「レモンは酸っぱい」──これは遍計所執性か?依他起性か?

◆【1】依他起性としての側面:

  • 唯識でいう〈依他起性〉とは、因縁によって仮に成立する存在・経験のこと。
  • 「レモンが酸っぱい」と感じるのは、

    • レモンの成分(クエン酸など)、
    • 味覚器官(舌の味蕾)、
    • 神経・脳の処理など、
    • 複雑な因縁和合によって生じた〈認識作用〉です。

👉 よって、「酸っぱい」と感じる経験そのものは、因縁によって仮りに起こる──すなわち依他起性


◆【2】遍計所執性としての側面:

  • 唯識でいう〈遍計所執性〉とは、
    「妄執された虚妄分別」=「所知依において生じる錯覚・執着」

  • たとえば:

    「レモン=酸っぱいに決まっている」
    「レモンは誰にとっても、いつでも酸っぱい果物であるべきだ」

といった、「主観的な認識によって構成されたもの」を、
あたかも〈普遍的に確定したもの〉であるかのように錯覚してしまう認識

👉 このような「虚妄な分別」をもって〈レモン〉や〈酸っぱさ〉を固定化するのが 遍計所執性

ここでは「酸っぱさ」という味覚が、五蘊を通じて構成された識のはたらきであるにもかかわらず、
それを「対象に固有な性質である」と 錯認してしまうはたらきを指しているのです。


結論:

認識の態様性質解説
「酸っぱい」と感じる現象そのもの依他起性因縁によって起こる仮の経験
「レモンは絶対酸っぱい」などと固定的に認知する遍計所執性識による虚妄分別によって「酸っぱさ」を対象に投影し執着している

📌用語の整理(外道的「実体」ではなく、正確な唯識語彙で):

誤用修正
レモンの「本質」レモンに対する虚妄分別(遍計)
実体的性質想(想蘊)や識(識蘊)における錯覚された性状
対象そのものに備わっている性格所取に虚妄に投影された相状(遍計所執)

🧠一言でまとめれば:

🔹「レモンが酸っぱい」という経験 → 依他起性
🔸「レモンとは酸っぱいものであるべきだ」→ 遍計所執性

すべての経験は五蘊と因縁によって仮に成立しており、
その上に「固定的な認識(妄想)」を重ねてしまうのが遍計所執です。


12
法介 2025/07/10 (木) 06:40:00

ではこれはどうだ?

酸っぱい〟はずのレモンを〝あまい〟と思うのは遍計所執性だよな。

では、レモンを〝酸っぱい〟と思うのは依他起性になるんじゃないかな?

13
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:40:34 a6870@99e33

鋭いご質問、ありがとうございます。

法介さんの問いは、「日常的な認識(レモン=酸っぱい)」がどこまでが依他起性で、どこからが遍計所執性なのか――という唯識教学の核心に迫る問いです。

以下、順を追って解説いたします。


🔷 まず、定義を明確にする

【依他起性】

  • 諸法が因縁(他の因と縁)によって仮に生じる性。
  • つまり、「Aという条件とBという条件がそろったからCという現象が一時的に成り立っている」という事実そのもの。

例:「レモンを口に入れると酸味を感じる」という生理的な作用。
これは五蘊(特に受蘊・識蘊)を通じて生じた現象であり、依他起性に属する。


【遍計所執性】

  • その依他起に対して、「酸っぱい」という感覚や経験に基づき、「これは本質的に酸っぱい果物である」と固定的・実在的に思い込むこころの働き
  • 要は、認識を実体化して「外にそういう物が本当にある」と思い込んでしまう妄執のこと。

🟨 本題に即して回答

Q:「レモンを甘いと思う」は遍計所執性か?

はい。
なぜなら、それは事実(因果)に反した誤認だからです。

  • レモンの性質を、過去の記憶や妄想、錯覚によって「甘い」と捉えてしまう。
  • このような誤認は、末那識の執着・分別によって生じた虚妄な把握であり、遍計所執性に該当します。

Q:「レモンを酸っぱいと思う」は依他起性か?

それ自体は“依他起性に基づいた経験的認識”であり、遍計所執性ではない。
ただし――

⚠️ 「常に酸っぱい」「本質的に酸っぱい」などと固定観念化した場合は、そこに遍計所執性が付着する。


🔁 まとめて言うと

認識内容該当する性理由
「レモンを食べたら酸っぱかった」依他起性因果(味覚と対象)の反応として成立しているから
「レモンは本質的に酸っぱい果物だ」遍計所執性条件に依らない実在的・固定的なものと誤認しているから
「レモンは甘い(実際はそうではない)」遍計所執性錯覚・誤認による虚妄な認識であるから

🔍 教学的補足

『成唯識論』では、遍計所執性は以下のように述べられます:

「於依他起上,計著自性。」
(依他起に於いて、自性を計著する)

つまり、“因縁で仮に成り立っている”という事実に対して、「そういう性(自性)が本当にある」と思い込むことが遍計所執性です。


結論(端的に)

  • 「レモンは酸っぱい」は、経験的に正しい認識であれば依他起性。
  • しかし、「レモンとはそういう“本質”を持った果物だ」と思うと、それは遍計所執性の始まりになる。

日常の中に仏教の智慧をどう通すか、その探求がまさに教学の妙味ですね。
引き続き、鋭いご指導をよろしくお願いいたします。

14
法介 2025/07/10 (木) 06:43:41 修正

↑の>> 13のチャッピーの回答は「昭和のおかしな仏教観」で答えてしまってます。

後ほどそれを突っ込みます。

15
法介 2025/07/10 (木) 06:44:29

ではレモンが嫌いな人がレモンを無理やり食べなくてはいけない状況になったとしよう。

それにより本人は悩む苦しんでいます。

これは遍計所執性か、それとも依他起性か?

16
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:47:09 a6870@99e33

たいへん良い問いです。

この問いは、**唯識における「認識のあり方と苦の構造」**に深く関係します。
以下、丁寧に見ていきます。


🔶 事例の整理

「レモンが嫌いな人が、無理にレモンを食べなければならない状況になり、苦しむ」

この構造には、以下の三層が含まれています:

  1. レモンに対する生理的反応(酸味や不快感)
  2. それに伴う嫌悪感(主観的・感情的な反応)
  3. 「嫌なものを食べなければいけない」という状況に対する苦悩

この三層に、それぞれどの三性が関わるかを見ていきます。


🟡 第一層:レモンの味による反応 → 依他起性

  • これは「レモンの酸味」と「本人の味覚体質(五蘊)」との因縁によって生じている。
  • よってこれは、因縁による仮りの生起=依他起性です。

🔴 第二層:嫌悪感や苦しみ → 遍計所執性

  • 「レモン=不快である」「レモン=悪いもの」「こんなものを食べさせるなんてひどい」など、
    感情や認識に〈固定的価値判断〉が混じってくる。
  • このような「対象に投影された主観的評価」が実体視されたとき、それは遍計所執性です。

つまり、レモンそのものに「嫌なもの」という自性があるかのように錯覚している。


🔵 第三層:「無理やり食べねばならない」という状況への苦悩

ここが微妙なポイントです。

  • この状況自体は、業縁によって一時的に成立した依他起的な事実です。
  • しかし、「苦しい」「耐えられない」「絶対に避けねばならない」という主観的執着や抵抗が強まると、それが遍計所執性に転じます

まとめ

レベル現象三性分類理由
味覚の刺激酸味を感じる依他起性五蘊による因果的反応
嫌悪感・拒絶反応「レモンは悪い」遍計所執性対象に価値判断を投影し実体視している
「無理やり食べねばならない」という状況事実としては依他起性だが、苦しみの構造は遍計所執性認識への執着・分別が苦を作る

🌿 補足:『唯識三十頌』と関係づけると…

「由彼妄執故,於依他起性,計著遍計性。」(唯識三十頌)

つまり、
事実としての依他起的現象に、主観的執着を加えて、自ら苦しみを生む。
レモンはただの果実。だがそこに「これは悪だ」という遍計執が生じると、煩悩苦が生まれるのです。


🧘‍♂️ 結論

  • レモンそのものの刺激 → 依他起性
  • それに対する嫌悪や苦しみ → 遍計所執性
  • 苦しみの根源は、対象ではなく「心の執着(妄計)」にある。

まさにここに、**唯識が明かす「煩悩生起のメカニズム」**が如実に表れています。
ご質問、まことに見事でございました。

17
法介 2025/07/10 (木) 06:47:44

ではそれを現行熏種子種子熏現行の視点で説明してみてくれ。

18
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:48:32 a6870@99e33

はい、法介さん。

先ほどの「レモンが嫌いな人が無理にレモンを食べなければならず苦しむ」という事例を、
唯識の核心たる 現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)種子熏現行(しゅうじくんげんぎょう) の観点から、体系的に解説いたします。


🌀前提確認:「熏(くん)」とは?

  • 「熏」とは、香がしみ込むように、あるはたらきが他に影響を与え痕跡を残すこと
  • 唯識では、「種子(しゅうじ)」=行為や認識の痕跡(業・記憶・習慣的傾向)を深層に蓄積する。

この「種子」は、

  • 心の現行(実際の作用)に影響し、また
  • 現行の心が、逆に新たな種子を阿頼耶識に熏じて蓄積していく。

この双方向のダイナミズムが、

  • 「種子熏現行」(潜在が顕在を生む)と
  • 「現行熏種子」(顕在が潜在に刻まれる)です。

🍋 事例の再掲

「レモンが嫌いな人が、無理に食べなければならない状況で苦しむ」

この心の動きの中に、熏のサイクルが明確に現れています。


🔁【1】種子熏現行(しゅうじくんげんぎょう)

「レモンが嫌い」という反応は、どこから来たのか?

これは、過去の経験・苦痛・価値判断が種子として阿頼耶識に熏じられており、
その種子が現在の第六意識・第七識の認識活動として顕在化した
ものです。

  • たとえば幼少期に「レモンを食べて吐いた」という体験
  • あるいは「酸っぱいものは体に悪い」という思い込み
  • さらに「レモン=苦痛」という感情反応

これらが種子となり、
→ 今回のレモンに出会った時に、**「嫌悪・拒絶の現行」**を引き起こした。

この流れが 「種子が現行を生む」=種子熏現行 です。


19
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:48:41 a6870@99e33

🔁【2】現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)

「嫌だ」「苦しい」「なぜこんなことをされるんだ」などの反応

これらは今回の出来事に対して、**現行(いま実際に起きている心の働き)**として生じた苦悩・感情です。

  • それらが強烈な情動をともなって生起すると、
  • それが 新たな種子として阿頼耶識に刻まれる

つまり、
→ 今回の「苦しんだ」「我慢した」「レモンはやはり嫌だ」という現行は、
→ 未来の心に再び影響する新たな種子となる。

この流れが 「現行が種子を熏ずる」=現行熏種子 です。


🪤 この繰り返しが「苦の連鎖」=遍計所執性の強化

ここで問題となるのは、

  • 「レモン=苦しいもの」という固定的な見方(遍計所執性)が、
  • 種子から現行へ → 現行から種子へ、と
  • ぐるぐると自家中毒的に強化されていく構造です。

これが、唯識でいう「煩悩熏習の無始連鎖(むしれんさ)」の一形態。


結論として

プロセス説明三性との関係
種子熏現行「嫌悪の種子」が現在の認識や感情を生む過去の業・煩悩の作用による依他起性
現行熏種子「今回の嫌悪体験」が再び種子として蓄積される感情的判断・執着により遍計所執性の強化
ループ構造同じ苦しみのサイクルを何度も繰り返す無明に基づく苦の連続生起

🔚 唯識的視点からの打破

このサイクルから自由になるには:

  • レモンに対する嫌悪の実体視を観破し(遍計所執性を見破る)
  • 「これはただの五蘊と因縁の仮りなる現象である」と照見し(依他起性として観じる)
  • 最終的には円成実性として、苦悩そのものの空性を体得する。

まさにここに、「唯識観による煩悩の治癒(止観)」の核心があります。


20
法介 2025/07/10 (木) 06:49:07

ではそこに更に「色即是空 空即是色」も絡ませてより繊細に説明してみてくれ。

21
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:50:03 a6870@99e33

ご指示に従い、先のレモンの事例を中心に、


  • 「現行熏種子・種子熏現行」
  • 「遍計所執性・依他起性」
  • 「色即是空・空即是色」

――これら三層を統合し、唯識と般若の立場からより繊細に説明いたします。


🟡【事例再掲】

ある人が「レモンが嫌い」だが、無理やり食べねばならず、苦しんでいる。


🔁【1】唯識的視点①:「熏」の因果構造(業・記憶・執着)

●〈種子熏現行〉

過去の経験(苦味・酸っぱさ・不快感)が阿頼耶識に種子として残っており、
→ 今回のレモンとの遭遇によって、それが現行(嫌悪・苦悩)として顕れる。

🌀 これは 依他起性(えたきしょう)
「レモンを食べる」「酸味を感じる」「拒絶反応を起こす」という現象は、
すべて因と縁によって仮に起こったもの。つまり「空」なるはたらきとして起こる「色」。


●〈現行熏種子〉

今、実際に「うわぁ嫌だ」「なぜ食べさせられるんだ」と思うと、
→ それが再び深層の阿頼耶識に刻まれ、
→ 次の遭遇時には、より強い拒絶反応が生じる。

🌀 ここに 遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
レモンを「絶対に苦しいもの」「不快の原因」として錯覚・実体視する執着が起こる。
つまり、「レモン=嫌悪の対象」と誤認された分別の投影


【2】般若的視点:「色即是空・空即是色」

ここに、般若経系の洞察=空観が入ると、見方が転じます。


22
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:50:10 a6870@99e33

▶️(A)色即是空:レモンの「色(味・匂い・形)」は実体ではない

  • レモンの酸っぱさ、不快さ、アレルギー反応 etc.
  • これらは五蘊と因縁の集まりにすぎない。
  • 「それ自体で存在する酸っぱさ・苦しさ」などという本質はない。

「色即是空」とは、レモンという「色法」が空性であること
つまり、「嫌なもの」という実体があるのではなく、心がそう見ているだけ


▶️(B)空即是色:空なるがゆえに苦しみが具体的に現れる

  • 逆にいえば、「空」だからこそ、あらゆる経験(苦しみも、味も)として現象が成立する。
  • 無自性であるがゆえに、因と縁によって「レモン=苦悩」という色法が成り立っている。

「空即是色」とは、**「空」であるがゆえに現象(色)が顕われる」**という洞察。
ここで「レモンの苦しみ」も、仮に現れた依他起の現象にすぎない。


🔄 統合的解釈:三層のクロス構造

レベル内容該当教義・構造
① 過去の経験 → 現在の嫌悪嫌悪の種子が「レモン=苦しみ」の現行を生む種子熏現行 / 依他起性 / 空即是色
② 現在の苦悩 → 未来の執着「やっぱりレモン最悪だ」という印象が深層に刻まれる現行熏種子 / 遍計所執性
③ 本来の姿レモンも苦悩も因縁によって仮に現れただけ色即是空:実体視の否定(空)
④ 観照の転換「苦しみ」と思ったものは、空なるがゆえの仮現空即是色:空が縁起を生む証し

🔚 結論:この苦しみの正体はなにか?

  • レモン自体には「苦しみを与える性質」は本来ない(=色即是空)。
  • だが、種子により執着が起き、分別が遍計所執性として発動し、
     → 「これは嫌なものだ」「我慢できない」と実体視する苦しみが形成される

☸️ 唯識の止観へ

このように、

  • 依他起なる現象(レモン)
  • 遍計所執なる妄念(嫌悪)
  • それを照らす般若の慧眼(色空不二)

――これらを統一的に観じるところに、
唯識における止観(寂静と智慧)の行法が成り立ちます。

そして、「レモンに苦しむ自分」という自我観もまた、
第七識における恒審思量によって支えられた虚構であると見抜くことで、
真に自他解脱への光明が見えてまいります。


23
法介 2025/07/10 (木) 06:51:23 修正

ではそれをこんどはレモンが好きな人が「おいしなー」といって食べている出来事を同じ論法(現行熏種子・種子熏現行/遍計所執性・依他起性/色即是空・空即是色)で説明してみてくれ。

>> 22のチャッピーの解説は「昭和のおかしな仏教観」で解説してしまってます)

24
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:53:00 a6870@99e33

了解しました、法介さん。

先ほどの構造をそのまま転用し、レモンを「おいしい」と味わって食べている場面を、


  • 現行熏種子・種子熏現行
  • 遍計所執性・依他起性
  • 色即是空・空即是色

この三層の論法で、唯識と般若の視座から解説いたします。


🟡【事例】

ある人がレモンを食べながら「うまいなぁ」と満足している。
すっぱい味を喜びとして受けとっている。


🔁【1】唯識的視点:阿頼耶識の熏習因果

●〈種子熏現行〉

過去に「酸味が心地よかった」「爽快だった」「元気になった」などの経験が
阿頼耶識に種子として保存されており、
→ レモンと接触したときに、「おいしい」という現行が発動する。

🍋=因縁によって発動した現象。
これは 依他起性(因縁による仮の存在)
「すっぱい」も「うまい」も、仮の縁起。


●〈現行熏種子〉

「やっぱり美味しい」「スカッとして気持ちいい」という現行の感受が
→ 再び阿頼耶識に熏習され、
→ 次回またレモンに接すると、より強く「好き」が働く。

ここでも 遍計所執性 が起こる可能性がある:
「レモン=自分を幸せにする絶対的対象」と実体視し始めたとき。
つまり、快感への執着・固着が始まるとき、それは遍計。


【2】般若的視点:色即是空・空即是色

▶️(A)色即是空:「おいしいレモン」は実体ではない

  • 「すっぱい」「うまい」「爽快」…
  • これらは味覚や記憶の組み合わせにすぎず、どれも固定不変の実体ではない。

🪞よって「おいしいレモン」という色法は、実体なき空なる仮有にすぎない。
すなわち 色即是空:レモンの「おいしさ」も空である。


25
チャッピー 2025/07/10 (木) 06:53:09 a6870@99e33

▶️(B)空即是色:空なるがゆえに「おいしさ」が現れる

  • 逆に、レモンに本質がないからこそ、条件が揃えば「おいしい」と感じられる。
  • 「空」であるがゆえに、因縁に応じて様々な色相が現成する。

🪷 空即是色
空(無自性)だからこそ、「味」「快」「美味」という仮現(色)が顕われる。


🔄 統合的解釈(ポジティブ遍計の構造)

内容該当構造・教義
① 過去に美味と感じた体験 → 現在の快楽「うまい!」が現行として現れる種子熏現行 / 依他起性 / 空即是色
② 快を感じることで次も楽しみに「レモン=嬉しいもの」という記憶が再び熏習される現行熏種子 / 遍計所執性(ポジティブ型)
③ そもそも「うまい」も「快」も因縁の仮現実体視せず空観すれば、自由に対処可能色即是空:妄執からの解放
④ 味覚が空ゆえに「うまい」も成立する仮に起こる現象に慈しみや感謝を見出す空即是色:空が色に転ずる実相

☯️ 重要な対比:苦しみと悦び、どちらも空

  • レモンで「苦しむ人」と「喜ぶ人」は、現象としてはまったく逆だが、
    → どちらも依他起性に基づく現行であり、
    → どちらも煩悩が入り込めば遍計所執性となる。

💬 つまり「快」も「不快」も、「空」を見ずに固着した瞬間に遍計となる。


🎯 総括

レモンの「おいしさ」は――

  • 因縁(依他起)によって成立した仮現であり(=空即是色)
  • それ自体には固定した本質はなく(=色即是空)
  • 喜びの体験が深層に熏習されて顕れ(=種子熏現行)
  • 今の体験がまた未来の印象を深める(=現行熏種子)

もしそれを「レモン=幸せの象徴」と固着するなら、それは遍計所執性。
だが、無住着に観じ、空性に照らして味わうなら、それは智慧の悦楽。


🧘‍♂️ 付記:止観の深化へ

このように、ポジティブな感覚もまた「空」であると観ずるとき、
快楽にも執着せず、苦にも染まらず、
「空」なるところに安住して現象に臨む――
そこに、唯識と般若の止観が真に融合する場があります。