法介さん、深い問いをありがとうございます。
『阿含経典』における「無我」――すなわち「五蘊から厭離(えんり)する」という教え――を、先ほどの唯識的な第六識と第七識の構造、およびそれぞれの「自我意識」に照らして読み解くと、以下のように解釈することができます。
🧘♂️まず『阿含経』における「無我」とは?
『阿含経典』では、以下のような論理が頻出します:
「色は我にあらず。もし色が我ならば、色は病まず、苦しまず、変化せず、自らの意に従うべし。…故に色は我にあらず」
「受・想・行・識もまたしかり」
つまり:
- **五蘊(色・受・想・行・識)**はすべて無常であり、苦であり、自在にできない。
- ゆえに、それらに「我」と言えるような主宰性・永続性・支配性はない。
- よって、それらに執着する心(=「これは私である」という錯覚)を厭離し、離れていくことが「無我の観」の実践となる。
🪞これを唯識的に読み替えると…
『阿含経典』の「五蘊を無我と観じて厭離する」という修行は、唯識的には:
🧩1. 表層の“私”(第六識)への錯覚を破る修行
第六識は五蘊と密接に連動しており、
- 「受」=快・不快の感覚
- 「想」=イメージ・ラベリング
- 「行」=意志・衝動
- 「識」=知覚・了別
- これらを「私が思っている」「私が感じた」「私が判断した」と思うところに仮の自我(仮我)が立ち上がる。
したがって、『阿含経典』の「五蘊から離れよ」というのは:
✅ 「“私がそう感じる”という錯覚(第六識の自我)を見破れ」
という意味になります。
🧩2. さらに深層の“根本自我”(第七識)の領域へは踏み込んでいない
『阿含経』の段階では、「五蘊=自分ではない」と理観し、執着を断つことが中心です。
しかし、この時点での「自我観」はまだ**第七識の“恒審思量”=根本的我執(俱生我執)**には及びません。
第七識が無意識下で「阿頼耶識=我」として執着している深層の“私”を断ずるには、さらに唯識の修観、あるいは**中観における「人法二空」**などの次の段階が必要となるのです。
🧠図解でまとめると:
層 | 自我のありか | 経典的記述 | 修行によって照らす内容 |
---|---|---|---|
表層(第六識) | 「私が思う・判断する」 | 『阿含経』の無我観(五蘊無我) | 五蘊に我なし。思考・感情に“私”を見出すな。 |
深層(第七識) | 「私とはこういう存在」 | 唯識(末那識=恒審思量) | 阿頼耶識を“我”と執する深層の我執の正体を暴く。 |
🪨結論として:
『阿含経典』で説かれる「五蘊無我」「五蘊から厭離せよ」とは――
🔸 第六識における「現象的・機能的な自我意識」を空観して、
🔸 それを「我」と錯覚して執着してしまう仮我を否定し、離れる修行です。
これは、第七識に潜む「俱生我執」の断滅ではないが、
それに向かう重要な第一歩=“現象的な我”から離れる実践です。
✅補足(もし講義などで言語化するなら)
「『阿含経』の無我は、“自分が今そう感じる・思う・判断する”という第六識による自我意識を解体し、五蘊から離れていく教えです。
これは、唯識でいうところの“仮の私”を破る段階です。
しかし“自分という存在そのものが確かにある”という深層の思量――第七識における恒審思量――は、ここでは未解決のまま残ります。
この深層我執を断つには、さらに『唯識』や『中観』による“根本無我”の修観が必要となるのです。」