>> 13の【現代語訳】
はい、この節も現代語訳をしてみます。
現代語訳:
(釈論の続き)
もし宗(教義の根本原理)と体(本質)が異なれば、体は狭くなり、法性の外に別の諸法が存在することになる。
宗と体が異なることの過ちはこのようなものである。
だから今、「異ならずして異なる」と言う。
ゆえに宗があり、不一でありながら一である。
それゆえ体も存在する。
今、この経の宗は「心で浄土を観ると浄土は清浄である」という観点に基づいている。
これを経の宗(根本理念)として立てている。
浄土は四種類ある。
それは、
- 凡聖同居土(凡夫と聖者が共に住む土)
- 方便有余土(方便行の修行が残っている土)
- 実報無障礙土(実報があり、障害のない土)
- 常寂光土(常に静寂で光明に満ちた土)
これらにはそれぞれ浄と穢(清浄と不浄)がある。
五濁(五つの汚れ)や軽重などが混在して浄と穢が共にある。
体(本質)においても巧拙や有余浄穢の差異がある。
順次、頓(急)に実報の浄穢に入り、最終的に究極の寂光の浄穢を証(あか)す。
娑婆は雑悪荊棘瓦礫(雑多な悪いものやトゲや瓦礫)が満ちており、同じく不浄が充満して共に住む穢土である。
安養浄土は清浄であり、池や流れに八徳(八つの徳)、樹に七珍(七つの珍宝)が並ぶ。
次に涅槃は皆正定聚(完全な定聚)であり、凡聖が共に住む上品の浄土である。
方便有余土は方便道(方便の修行の道)を修して四住惑(四つの迷い)を断つので、方便と呼ぶ。
無明が完全には尽きていないので有余と称する。
釈論に言うには、「三界の外に浄土があり、声聞や辟支仏はその中に出生する。彼らは法性身(真の法の身体)を受けるが、分段生(部分的に生まれること)ではない」。
法華経に言う、
「もし我(仏)が滅度した後に阿羅漢が実得すれば、この法を信じない。もし他の仏に会えば、この法によって決了(決定的に理解)し、さらに利鈍(利根と鈍根)がある」。
上に指すのは浄、下に指すのは穢である。
実報無障礙土は真実の法を行じて勝報を感得し、色心(身体と心)が相妨げない。
だから無障礙と言う。
純粋な菩薩は二乗(声聞・縁覚)を持たない。
仁王経に言うように、「三賢十聖が果報に住する」ことがその意味である。
この部分は、浄土の種類やその性質、方便と真実の関係についての説明で、特に方便有余土の段階的な修行の意味合い、そして実報無障礙土の完全な浄土の特質が語られています。
ご質問やさらに詳しい説明が必要なら教えてください。