現代語訳
次に、「不共説(大乗だけに説かれる)般若」における法性の実相を大乗経の本体として論じる場合は、それは最初から異なるものである。二乗(声聞・縁覚)が見るのは偏った真理であって、もはや「同じ」とは言えない。
この「異なる」という立場には二つの面がある。
- 別教の場合
- 円教の場合
1. 不共般若の別教における法性・実相
別教では、二つの障り(煩悩障・所知障)を断じ、生死と涅槃という二つの極端を離れる。そして**「不空」の理**、つまり本来自性清浄の心=如来蔵の理をもって法性・実相とする。
この境地は、声聞が同席していても耳が聞こえず口も利けない者(聾唖)のように、全く理解できない。
譬えれば、鉱石を砕いて真金と**頗梨(パリー、ルビーやサファイアの類)**を取り出すようなもの。
- 真金は壊れず、思うままにいろいろな器物に作り変えられる。
- 頗梨は壊れやすく、いろいろな形に作り替えることはできない。
この違いが、二乗と大乗(別教)の境界である。
2. 不共般若の円教における法性・実相
円教では、「一切の諸法がそのまま仏性・涅槃・如来蔵である」と説く。
この教えも、二乗が同席していても全く理解できず、やはり聾唖のようである。
譬えれば、如意宝珠(願いを叶える宝)と頗梨珠とを比べるようなもので、両者は全く別物である。したがって「同じ」とは絶対に言えない。
解説
ここで「声聞が同席していても聾唖のごとく理解できない」とありますが、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場面が思い出されます。この経は「無問自説」と呼ばれ、誰かが問いを立てたわけでもないのに、釈尊みずから説き始められました。従来の解釈では、「説きたくて仕方がなかったから」などと説明されますが、それはあまりに素朴すぎる理解でしょう。
実際には、釈尊は三十六回も舎利弗に呼びかけていますが、舎利弗は一度も応答しません。法然や親鸞は「驚きのあまり言葉を失った」と説明しましたが、そうではありません。舎利弗は五蘊を全て空じていた為に聞く事も声を発することすらも出来ないでいたのです。
真理の説法が目の前で行われても、二乗の境涯からはそれを「聞く耳」を持たず、沈黙せざるを得ないのです。聾唖の譬えは単なる理解不足ではなく、修行の次元そのものの違いを示しているといえるでしょう。