四依の菩薩〝天台智顗〟による龍樹『中論』解釈。
四依の菩薩とは:
『涅槃経』には「仏滅後、四依の菩薩あり」と説かれており、これは仏に随い、正法を曲げることなく説き弘める者を指す。仏滅後、文殊・迦葉・阿難らが経を結集し法を保持した。その後、「四依の菩薩」として竜樹・天親(世親)が現れ、小乗や権大乗を経て実大乗へ至る道筋を示した。中国では天台大師(智顗)が大小・権実の理を明らかにして体系化した。末法においては、日蓮大聖人が『法華経』における付属の立場から上行菩薩として「四依の菩薩」の系譜を継ぎ、南無妙法蓮華経をもって仏の本懐を顕した。
これらの聖人に共通するのは、釈迦が『阿含経』で示した「五蘊の四種の変化の相」をそれぞれ明確に説いていることである。この「五蘊の四種の変化の相」とは、釈迦が初期仏典で示した苦諦・集諦・滅諦・道諦、すなわち四諦の四種の変化の相に対応するものである。
四依の菩薩の系譜と“四種”の法門
<竜樹(龍樹)―中観>
「四空」
・析空:客観からの厭離
・体空:主観からの厭離
・法空:法からの厭離
・非空:仏という概念からの厭離
<世親(天親)―唯識>
「四智」
・成所作智:声聞の智慧
・妙観察智:縁覚の智慧
・平等性智:菩薩の智慧
・法界体性智:仏の智慧
<智顗(天台大師)―天台>
「四門(四教義)」
・有門:蔵教(声聞の教え)
・空門:通教(縁覚の教え)
・亦有亦空門:別教(菩薩の教え)
・非有非空門:円教(仏の教え)
<日蓮―法華>
「一念三千の法門」
・仮諦:声聞の覚り
・空諦:縁覚の覚り
・中諦:菩薩の覚り
・円融:仏の覚り
『維摩經玄疏』卷第三より
T1777.38.0534b16: 二明對論者。若別通經論
T1777.38.0534b17: 類經可知。若通申經論如中論破一切内外
T1777.38.0534b18: 顛倒執諍竟。外人問曰。若一切世間皆空無
T1777.38.0534b19: 所有者。即應無生無滅。以無生滅故則無四
T1777.38.0534b20: 諦四沙門果三寶。若受空法。有如此等過。論
T1777.38.0534b21: 主答曰。汝今實不能知空空因縁。諸佛依二
T1777.38.0534b22: 諦爲衆生説法。若不知二諦則不知眞佛法。
T1777.38.0534b23: 以有空義故則一切法得成。若無空義者。一
T1777.38.0534b24: 切法則不成。一切法成者有四諦四沙門果
T1777.38.0534b25: 三寶也。今釋此語論主破執見既盡明有四
T1777.38.0534b26: 諦四沙門果三寶者。即是申摩訶衍教三種
T1777.38.0534b27: 四諦三種四沙門果三種三寶也。問曰。云何
T1777.38.0534b28: 得知。答曰。論主説偈故知有也。偈云。因縁所
T1777.38.0534b29: 生法我説即是空。此偈申通教大乘詮無生
T1777.38.0534c01: 四諦四沙門果三寶也。偈云亦名爲假名。即
T1777.38.0534c02: 是申別教大乘詮無量四聖諦四沙門果三寶
T1777.38.0534c03: 也。偈云亦名中道義。即是圓教大乘詮無作
T1777.38.0534c04: 四實諦四沙門果三寶也。破申之意大乘三
T1777_.38.0534c05: 教祇用一偈。作論之功妙在於此。
これは天台大師智顗の『維摩經玄疏』巻第三からの有名な一節で、「二諦」と「三乗四諦」を大乗三教(通・別・円)に振り分けて解釈する箇所です。まず漢文を整理して現代語にし、次に解説を加えます。
原文の意訳(現代語訳)
ここで論じているのは「四種の四諦の理」である。
次に「対論(反論に応答すること)」を説明する。
もし経論をそれぞれ個別に考えるならば、経と論の内容の違いは理解できる。
しかし経と論を通して一体に解釈すれば、たとえば『中論』のように一切の内外の顛倒執着をことごとく打ち破ることになる。
すると外道の人が問う。「もし一切の世間がみな空であって何も存在しないのなら、生も滅もないはずだ。生滅がないなら四諦も四沙門果も三宝もないではないか。もし“空”という法を受け入れるなら、このような過失が生じるだろう」と。
これに対して論主(龍樹)は答える。「汝はいま空の因縁を本当に理解できていない。諸仏は二諦に依って衆生のために法を説く。もし二諦を知らなければ真の仏法を知ることはできない。有(世俗諦)と空(真諦)の義によって、一切の法は成り立つのである。もし空義がなければ、一切の法は成り立たない。一切の法が成り立つからこそ、四諦も四沙門果も三宝もあるのだ」と。
今ここでこの言葉を解釈すると、論主が執着見を破して尽くしつつ、四諦・四沙門果・三宝の存在を明らかにしたことになる。すなわちこれが大乗教における三種の四諦・三種の四沙門果・三種の三宝を示している。
問う、「どうしてそれが分かるのか」。
答える、「論主が偈を説いているからである」。
その偈に曰く――
「因縁所生の法を、我れはすなわち空であると説く。」
この偈は「通教の大乗」を示し、「無生の四諦・四沙門果・三宝」を説く。
また偈に曰く――
「また仮名と名づく。」
これは「別教の大乗」を示し、「無量の四聖諦・四沙門果・三宝」を説く。
また偈に曰く――
「また中道の義とも名づく。」
これは「円教の大乗」を示し、「無作の四実諦・四沙門果・三宝」を説く。
このように「破」と「申(立てること)」の趣旨をもって、大乗の三教(通・別・円)を、ただ一首の偈頌で表してしまった。論を作る功徳の妙は、まさにここにある。
解説
対論の場面
大乗三教への振り分け
龍樹の有名な偈「因縁所生法 我説即是空 亦為是假名 亦是中道義」を、智顗は通・別・円の三教に対応させて解釈しています。
結論
つまりこの文は、
「龍樹の偈は単に空を説くだけでなく、大乗三教それぞれの立場からの四諦観・三宝観をすべて内包している。その妙は、破執と立義を兼ね備えて一偈で尽くしているところにある」
とする智顗の解釈です。
👉 龍樹=“空”の祖師だが、その一偈が実は後の天台の体系化に直結しているという事が読み取れる個所です。
智顗の四種四諦はこちらで詳しく紹介しております。
『四種四諦』
https://zawazawa.jp/gengi/topic/2
① 四種四諦の内訳
生滅の四諦(蔵教)
四諦の因果を「生滅あり」と観察する。声聞向けの理解。
⇒ 世界悉檀(衆生に応じて世間的に説く)。
⇒ 人空(声聞・縁覚の智慧=中智)。
無生の四諦(通教)
四諦の因果を「空であり生滅なし」と観察する。縁覚向けの理解。
⇒ 為人悉檀(衆生を導くための仮の教え)。
⇒ 人空(声聞・縁覚の智慧=中智)。
無量の四諦(別教)
四諦の因果を「無量の差別」をもって観察する。菩薩の深い智慧。
⇒ 対治悉檀(煩悩や執着を対治するための教え)。
⇒ 法空(菩薩の智慧=上智)。
無作の四諦(円教)
四諦の因果を「実相そのものであり不可思議」と観察する。仏の境地。
⇒ 第一義悉檀(究極の真理を説く)。
⇒ 非空(仏の智慧=上智)。
② 智顗による二分法
= 生滅四諦・無生四諦(析空・体空=人空)
= 無量四諦・無作四諦(法空・非空)
③ 『維摩経玄疏』との接続
『維摩経玄疏』の解釈では、龍樹の四空(析空・体空・法空・非空)を土台にして、智顗は四種四諦を「声聞・縁覚・菩薩・仏」という四位に対応づけています。
つまり、智顗は「四種四諦」を龍樹の四空を基盤に拡張し、さらに『法華経』や『涅槃経』の文脈で位置づけ直したと言えるのです。
そして日蓮に至っては、この「四種の四諦」を一念三千に統合し、「仮諦=声聞」「空諦=縁覚」「中諦=菩薩」「円融=仏」として簡潔にまとめ直した。
まとめると:
こう並べると「四依の菩薩」=龍樹を中心に、智顗が『維摩経玄疏』でそれを四教判・四種四諦に展開している様子が良く分かります。
>> 2の中の↓この部分について詳しく解説しておきます。
問う、「どうしてそれが分かるのか」。
答える、「論主が偈を説いているからである」。
その偈に曰く――
「因縁所生の法を、我れはすなわち空であると説く。」
この偈は「通教の大乗」を示し、「無生の四諦・四沙門果・三宝」を説く。
また偈に曰く――
「また仮名と名づく。」
これは「別教の大乗」を示し、「無量の四聖諦・四沙門果・三宝」を説く。
また偈に曰く――
「また中道の義とも名づく。」
これは「円教の大乗」を示し、「無作の四実諦・四沙門果・三宝」を説く。
智顗の「四種四諦」とその根拠
智顗はここで『法華玄義』で説く「四種四諦」(生滅・無生・無量・無作の四諦)の
・無生の四諦
・無量の四聖諦
・無作の四実諦
を持ち出して説明しておりますが、
この「四種四諦」は、彼自身の独創的理論ではなく、仏典および龍樹の「四悉檀」を基盤として組み立てられた理論です。
根拠1:大乗経典に散見される「四諦の多様な相」
→ ここに、四諦が「衆生の根機や智慧の段階によって異なる観じられ方をする」という発想の端緒がある。
根拠2:龍樹の「四悉檀」との対応
智顗は『法華玄義』で、四種四諦をそれぞれ四悉檀に対応させている。
つまり四種四諦は、龍樹の「衆生機根に応じた四つの説法の在り方」をそのまま四諦観に展開したものと理解できる。
根拠3:「人空・法空・非空」の区別による整理
智顗は「生滅」「無生」の二諦を人空(声聞・縁覚の智慧)とし、「無量」「無作」の二諦を法空および非空(菩薩・仏の智慧)に位置づけた。
→ これは「第六意識(凡夫・二乗)」と「第七末那識(菩薩・仏)」との境界を基準とした分類である。
このように智顗の「四種四諦」は決して彼の恣意的創作ではなく、仏典(特に『涅槃経』『勝鬘経』)や龍樹の「四悉檀」を根拠として再構成された「教相判釈」で、その意義は、経典の多様な四諦観を体系化し、衆生の機根に応じて四諦をどう理解すべきかを整理した点にあるといえます。
『維摩経玄疏』に見られる智顗の『中論』解釈
1.二十四章第8偈(諸法因縁生...)
原文(龍樹)
諸法因縁生,我説即是空。
亦為是假名,亦是中道義。
・「即是空」→ 通教大乗(無生の四諦・四果・三宝)=空諦
・「是假名」→ 別教大乗(無量の四諦等)=仮諦
・「是中道義」→ 円教大乗(無作の四諦等)=中諦
🔍 ポイント
この一偈の中に三諦を読み込み、さらにそれを四教判の中に位置づけています。
2.十八章第5偈(以有空義故...)
原文(龍樹)
以有空義故,一切法得成。
若無空義者,一切則不成。
智顗の読み
・「空義有る故」→ 中諦の立場から、空があるからこそ諸法は成立する(空即是色)
・ここから円融三諦の関係(空・仮・中が互いに成立の条件となる)を導く。
🔍 ポイント
単なる「空の肯定」ではなく、空が仮を成り立たせる論理=中諦を見ている。
3.『中論』観法品
智顗の解釈(T1777_.38.0550a04以降)
・観法品=通教の解脱
・四諦品=通・別・円教の三重解釈が可能
・後の二品=三蔵教的立場
・よって、『中論』全体で四教・四種解脱が網羅されると判定
🔍 ポイント
品ごとに天台の教判を当てはめることで、龍樹の論理を四教義の体系に組み込み。
4.法性の「同」と「異」論(T1777_.38.0555c07以降)
・声聞・縁覚は空のみを見る(但空)=通教的
・菩薩は空と不空(不可得空)を見る=別教・円教的
・ここに「法性は同だが見方が異なる」という三段構造を設定し、三諦義に接続。
つまり智顗は、『中論』の
・空(通教)
・仮(別教)
・中(円教)
の三レベル解釈を随所に適用し、さらに品全体を四教義・四種解脱に分類して読んでいます。
更に、龍樹のテキストの中には、俗諦・真諦・中道第一義諦の三つが「三諦的」に並び立っている場面が数か所見受けられます。
1. 龍樹の三層構造的な言及
例えば『中論』や『大智度論』では、以下のような構造が読み取れます。
龍樹は明示的に「三諦」という語は用いませんが、真諦を説明する中で「中道第一義諦」という第三の視座を独立して述べる場合があります。
特に二十四章十八偈や『大智度論』巻五では、
という三層がほぼそろっています。
2. 智顗の三諦との関係
天台智顗は、龍樹の中に含まれていたこの三層構造を整理・体系化し、
の三諦円融として公式化しました。
つまり、龍樹の段階では名称としては二諦が基本ですが、実質的には三諦的な観法を内包していた、とも読めます。
3. 重要ポイント
また智顗は『維摩経玄疏』の中でこのようにも言っております。
T1777.38.0550a04: 中論觀法品所明由是通教意。四
T1777.38.0550a05: 諦品明即有通別圓三教意。後兩品是三藏
T1777.38.0550a06: 教意。約此明義即得有四教四種解脱義也。
T1777.38.0550a07: 而天親多申別圓。龍樹多申通圓。兩家所申
T1777_.38.0550a08: 解脱同異義推可知。
【読みくだし文】
『中論』の観法品に明かすところは、これ通教の意に由る。四諦品で明らかにされていることは、すなわち通教・別教・円教の三教の意を含む。その後の二つの品は、すなわち三蔵教の意である。これに基づいて義を明らかにすれば、すなわち四教と四種解脱の義を得ることができる。しかるに、天親は多く別教・円教を述べ、龍樹は多く通教・円教を述べる。両家の述べる解脱の同異の義は、推して知るべきである。
【現代語訳】
『中論』の観法品で説かれている内容は、これは通教(大乗の中でも声聞・縁覚と通じる立場)の趣旨によるものである。また、「四諦品」で説かれている内容は、通教・別教・円教という三種の教えの立場を含んでいる。さらに、その後に続く二つの品は、三蔵教(小乗的立場)の趣旨である。こうした分類に基づけば、『中論』の中には四教(蔵・通・別・円)それぞれに対応する四種の解脱の教えが説かれていることがわかる。
そして、天親(世親菩薩)は別教と円教に重きを置いて説明するのに対し、龍樹菩薩は通教と円教に重きを置いて説明している。この両者の説く解脱の立場の異同は、以上の整理から推測できる。
ここで智顗が言う、
・世親は別教と円教
・龍樹は通教と円教
という言葉の意味を、もう少し噛み砕いて説明します。
まず龍樹の場合です。
龍樹が重視したのは通教であり、その中心にあるのは「時間」という概念でした。説一切有部は、時間そのものを実在する法(法有)と捉え、それを『倶舎論』の体系の中で論じています。これに対して龍樹は、時間とは不変の法則として存在するものではなく、五蘊の働きに依存して生じる現象にすぎないと批判しました。
つまり、世俗諦として語られる「時間」はあくまで人間の概念世界における真理であり、それを自然界に普遍的に備わる法則と捉えた説一切有部の立場を「法有」として退けたのです。そして龍樹は、これに対して真諦として「相依性縁起」を説き出しました。
要するに龍樹の俗諦とは「説一切有部の法有(倶舎論的世界観)」を指しており、それを打ち破ることで「相依性縁起」を真諦として立てた、これが通教で展開された龍樹の「法空」なのです。
これに対して世親です。
世親の展開した別教の立場もまた「法空」ですが、その対象はさらに深い層にあります。龍樹の法空が表層の意識――つまり人間の時間的・因果的な世界観を対象としていたのに対し、世親は『唯識』の思想をもって、末那識に潜む根本的な自我意識が作り出す法そのものを空じようとしました。言い換えれば、龍樹が批判したのは「表層の自我意識による法の認識」であり、世親が空じたのは「深層の根本自我による法の認識」だったのです。
整理すると次のようになります。
・龍樹の法空(通教)
対象=表層の自我意識に基づく法(時間や因果を法則として捉える認識)
・世親の法空(別教)
対象=深層の末那識に潜む根本自我がつくり出す法(自己中心性に根ざした認識)
このようにして、龍樹と世親の法空はともに「空」を説きながらも、その射程と深さに違いがあるのです。
↓へと続きます。
『維摩経玄疏』から学ぶ龍樹と世親の〝空〟の違い
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/11